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〈日蓮大聖人の慈愛の眼差し〉
日眼女 「陰の労苦」に無量の福徳が
夫・四条金吾を支えて共に信仰に励んだ門下
大聖人から「日本第一の女人」とたたえられる
●神奈川・鎌倉市に立つ鎌倉国際教学会館。昨年、開館20周年を迎え、新たな名称となった。この鎌倉の天地を舞台に四条金吾夫妻は強盛な信心に励んだ
文永7年(1270年)、日眼女は待ち望んでいた子どもを身ごもったと推定される。翌文永8年(1271年)5月8日、金吾宛てに送られた「月満御前御書」によれば、日眼女は無事に女児を出産し、大聖人は、早速、「月満御前」と命名された。
新たな命を授かり、喜びに包まれていた金吾夫妻を揺るがす一大事が起きる。同年9月12日の竜の口の法難である。
平左衛門尉頼綱が兵士を率いて大聖人を捕縛。大聖人はその深夜、拘留されていた北条宣時邸から密かに連れ出され、鎌倉近郊で処刑されようとした。
金吾邸の近くを通った大聖人は、使いの者を金吾に送る。その急の知らせを受けた金吾は、大聖人の元へ、裸足で駆け出した。そして大聖人の馬の口に取り付き、大聖人が処刑されたなら自分も一緒に死ぬという覚悟でお供したのである。
夫を送り出した日眼女は大聖人と夫の身の上を案じて題目を唱え、眠れぬ一夜を過ごしたに違いない。
大聖人一行が竜の口に到着し、処刑が行われようとすると、江の島の方から「光り物」が現れ、刑の執行はできなくなった。金吾は依智(神奈川県厚木市内)まで大聖人にお供した後、帰宅した。
夫から竜の口での出来事を聞いた日眼女は、究極の大難にあっても悠然と乗り越えた師の偉大さを命に刻んだことだろう。
◇◇
文永9年(1272年)4月に日眼女に送られた「同生同名御書」では、夫を鎌倉から佐渡へはるばる送り出した日眼女を、大聖人は最大に称賛されている。
「あなた方は、鎌倉にいながら、人目をはばからず、命を惜しまず、法華経の信心をされていることは、ただごととも思われません」(同1115ページ、趣意)
「このような乱れた世に、この殿(金吾)を佐渡の地まで遣わされた、あなたの真心は大地よりも厚いのです。必ず地神も知っていることでしょう。また、その真心は虚空よりも高いのです。きっと梵天・帝釈も知られていることでしょう」(同ページ、通解)
当時、鎌倉では、良観ら諸宗の悪僧に唆された幕府要人らが、大聖人の門下を激しく迫害していた。二月騒動(北条氏一族の内乱)による混乱もあったと考えられる。
◇◇
「全ての人が憎むならば憎めばよい。釈迦仏・多宝仏・宇宙のあらゆる仏をはじめ、梵天・帝釈・日天・月天らにさえ、大切に思っていただけるならば、何がつらいことがあるでしょうか。法華経にさえ、ほめていただけるならば、何もつらいことはないのです」(同1135ページ、通解)
さらに大聖人は同抄で「妙法を持つ女性は、他の一切の女性に優れているだけでなく、一切の男性にも超えている」(同1134ページ、通解)と訴えた。そして、けなげに信心に励み、夫を支える日眼女を「日本第一の女人なり」(同1135ページ)とたたえた。日眼女にとって、大聖人のこのお言葉がどれほど心の励みになったことだろう。
◇◇
弟子の「陰の戦い」をじっと見つめる師匠。師匠は全てを知ってくださっているとの確信を抱き締めて奮闘する弟子――この麗しき師弟の精神は、仏意仏勅の創価学会に厳然と受け継がれている。
かつて池田先生は心の内を語った。
「私は、いつも『陰の人』を見ている。『陰の立場』で、コツコツと広布に戦ってくださっている方々を真剣に見つけ出し、最大に賞讃してさしあげたいという気持ちでいっぱいである」と。
友のため、地域・社会のために尽くす行動は、誰の目にも触れないかもしれない。しかし、私たちのことを誰よりも心に掛け、励ましを送り、成長と勝利を待ち望んでいる師匠がいる。
どこまでも師と共に! 師の期待にお応えする人生を!――この師弟の絆を持つ生き方は強く、深い。
☆二月騒動(にがつそうどう)は、鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。
北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。