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2020.7.17-6

2020年07月16日 (木) 22:37
2020.7.17-

◎大阪事件は、この年の7月3日、学会勢力の台頭を恐れた当時の検察権力が、池田大作先生(当時青年室長)を、不当に逮捕・勾留した事件です。同年4月の参院大阪地方区の補欠選挙では、一部の学会員が選挙違反容疑で逮捕されてしまいました。これを、学会に打撃を与える絶好のチャンスと捉えた当時の検察は、逮捕した会員たちを恫喝したり、騙したりして、池田青年室長の指令で選挙違反をしたという虚偽の供述を引き出し、ついに無実の池田室長を逮捕するに至ったのです。

●学会の正義を満天下に示す
逮捕された池田室長への取り調べは、深夜まで続く過酷なものでしたが、室長は敢然と無実を主張しました。しかし、「罪を認めなければ、次は戸田会長を逮捕する」という検察の脅迫に、“衰弱した戸田先生を投獄させるようなことがあってはならない”と、師と学会を守るため、いったんは罪を認め、法廷闘争で身の潔白を証明することを決意。逮捕から2週間後の7月17日に、大阪拘置所を出所しました。
その直後の同日午後6時、中之島の大阪市中央公会堂において、歴史的な「大阪大会」が開かれました。天の怒りのような凄まじい雷鳴が響き渡る中、池田室長は火をはくように叫びました。「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
この日、池田室長に「戦いはこれからだよ。御本尊様は、すべてわかっていらっしゃる。勝負は裁判だ。裁判長はかならずわかるはずだ」と語った戸田先生。池田室長は裁判で真実を証明することを深く決意し、84回に及ぶ法廷闘争を戦い抜きました。
師の言葉通り、晴れて無罪判決を勝ち取ったのは、それから4年半後の1962(昭和37)年1月25日のことです。この判決によって、学会の正義が満天下に示され、事件は学会の大勝利で終わったのです。

◎1402年、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位した。1403年には北京を首都と定めている。実際に移ったのは1421年であり、この時これを改名して北京順天府とするとともに、1406年から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。

◎ポツダム会談(ポツダムかいだん)は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域[1]となったポツダムに、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。会議の最後にはポツダム協定が策定された。また7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたことで知られているが、会議の公式日程において対日問題は協議されなかった。


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0186〜0237 開目抄 0198:09〜0199:03 
第22章 法相宗の謬解を挙ぐ

此の宗の云く始め華厳経より終り法華・涅槃経にいたるまで無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず、仏語に二言なし一度・永不成仏と定め給いぬる上は日月は地に落ち給うとも大地は反覆すとも永く変改有べからず、されば法華経・涅槃経の中にも爾前の経経に嫌いし無性有情・決定性を正くついさして成仏すとは・とかれず、まづ眼を閉じて案ぜよ法華経・涅槃経に決定性・無性有情・正く仏になるならば無著・世親ほどの大論師・玄奘・慈恩ほどの三蔵・人師これをみざるべしや此をのせざるべしやこれを信じて伝えざるべしや、弥勒菩薩に問いたてまつらざるべしや、汝は法華経の文に依るやうなれども天台・妙楽・伝教の僻見を信受して其の見をもつて経文をみるゆえに爾前に法華経は水火なりと見るなり、


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