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◎エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英: Siege of Jerusalem)は、1099年6月7日から7月15日まで、聖地エルサレムを舞台に戦われた、第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。最終的には十字軍がファーティマ朝軍を破り、聖地を占領することに成功した。
◎ タンネンベルクの戦いあるいはグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村とウォドヴィゴヴォ(ポーランド語版)村の間にある平原で戦われた。この戦いで勝利をおさめたポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の版図をもつ強国として最盛期を迎えることになる。
◎建国神廟(けんこくしんびょう)は、満洲国の建国の元神とされた天照大神を祀った宗教施設。満洲国皇帝の帝宮内にあった。1940年(康徳7年)創建、1945年(康徳12年)廃絶。
1940年(康徳7年)7月15日の払暁、建国神廟鎮座祭が執り行われ、天照大神の神降ろしが行われた。その後、満洲国皇帝・溥儀は文武百官を集め、「惟神(かむながら)の道」を国の基本とする「国本奠定詔書」を宣布した。また、建国神廟の祭祀・運営を所管する皇帝直隷機関として、同日付で祭祀府が新たに設置された。祭祀府総裁には、満洲国参議府副議長で元日本陸軍中将・近衛師団長の橋本虎之助が任命された。
昭和天皇は、満洲国が天照大神を祀ることにあまり気が進まなかったとされ[2]、「中国には古来、祭天の信仰があるから、天を祀るのが妥当ではないか」と言ったという[3]。
建国神廟の霊代(神体)は、紐付きの白銅製丸鏡である。当初は天皇からの神鏡の下賜を宮内省に申し出たが、「天孫降臨ノ事實ト似通ヒ到底受諾シ難」いとして断られ、次に皇大神宮(伊勢神宮)の分霊をうけたいと申し出たが、これも宮内省に断られた。結局、満洲国皇帝が持参した鏡に対し、伊勢神宮で所定の修祓(お祓い)を行うことに落ち着いた[1]。
◎免田事件(めんだじけん)とは1948年(昭和23年)12月30日に熊本県人吉市で起こった殺人事件であるとともに、同事件の被疑者に死刑判決が下されたのち、再審で無罪が確定した冤罪事件でもある。四大死刑冤罪事件のひとつ(他の3つは財田川事件、松山事件、島田事件)。日本弁護士連合会が支援していた。
1948年12月30日午前3時ごろ、熊本県人吉市で祈祷師夫婦(76歳男性・52歳女性)が殺害され、娘2人(14歳と12歳)が重傷を負わされ、現金が盗まれた。現場検証から犯行時刻は12月29日深夜から翌12月30日午前3時の間とされた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現・あさぎり町)在住の免田 栄(めんだ さかえ、1925年11月4日生まれ、当時23歳)を、玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、同月16日には殺人容疑で再逮捕した。この3日間あまりの間、警察は免田に拷問と脅迫を加え、自白を強要する。同月28日に強盗殺人罪で起訴。免田は第1審の第3回公判で自白は拷問で強要されたものであり、事件当日には特殊飲食店の女性と遊興しておりアリバイがあるとして無罪を主張。
警察はアリバイの捜査を行うが、アリバイ証人に対し「一緒にいたのが翌日」というように証言を誘導させた。また、検察は証拠品である凶器の鉈、免田が犯行時に着ていて血痕が付着していたとされる法被・マフラー・ズボンなどを廃棄する。
免田は、自分が犯人にされたのは、人吉署の益田刑事が売春の手伝いをしているのを知ってしまったからだと主張している。
無罪が確定されたにもかかわらず、その後の免田に対する批判が続いた。当時としては桁違いである多額の補償金の使い道、出所後の行動(女性関係など)を週刊誌が報道したりした。立川談志は1989年6月1日未明放送のテレビ朝日『プレステージ』で「昔の法務大臣に聞きましたよ。『やってねえわけねえ』んだってね」と話し、11の市民団体がテレビ局に抗議文を送る騒動となった。談志はのちに謝罪した。
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0186〜0237 開目抄 0198:09〜0199:03
第22章 法相宗の謬解を挙ぐ
尸那国の玄奘三蔵・月氏にいたりて十七年印度百三十余の国国を見ききて諸宗をばふりすて此の宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさづけ給い昉・尚・光・基を弟子として大慈恩寺並に三百六十余箇国に弘め給い、日本国には人王三十七代・孝徳天皇の御宇に道慈・道昭等ならいわたして山階寺にあがめ給へり、三国第一の宗なるべし、
中国の玄奘三蔵はインド各地へ行って、十七年の間、インドの百三十余の国々を訪ねて仏法を学んだ末、諸宗をば振り捨ててこの法相宗を中国に伝来し、当時は唐の太宗皇帝という賢王にこれを授けた。さらに神肪・嘉尚・普光・窺基等の大弟子を得て、大慈恩寺を始め、三百六十余箇国にこれを弘通した。日本国には、人王第三十七代孝徳天皇の御代に道慈・道昭等がこれを習い伝えて、山階寺を建立して尊崇した。これこそ三国第一の宗教である。