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2020.7.12-5(2)

2020年07月11日 (土) 12:03
2020.7.12-

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◎〈世界の名画との語らい〉ロダン《カレーの市民》

先入観を打ち破る新たな英雄像 
人間の可能性ひらいた「近代彫刻の父」

●語り継がれる6人の物語

 フランス北部、英仏海峡沿いの港町であるカレー市は、同市を救った英雄、ウスタッシュ・ド・サン=ピエールをたたえる記念碑の計画を立てていた。不思議な縁に手繰り寄せられて、その依頼が彫刻家オーギュスト・ロダンのもとに舞い込んで来たのは、1884年のこと。

 ウスタッシュは、どんな人物だったのか。史実によると、英仏の百年戦争時代(1337年〜1453年)、カレー市はイングランド王エドワード3世の侵略を受け、包囲された。兵糧攻めが1年以上も続き、極限に達したある日、王は要求する。市を解放する代わりに、6人の人質を差し出すこと。帽子を取り、裸足となり、首に縄を巻いて、市の鍵を手にして処刑台に向かえ、と。

 市民はたじろぎ、怒り、嘆いた。“いっそ戦おう!”“華々しく散ろう!”と、ある者は叫んだ。不気味な沈黙が場を包んだ時、一人、決然と立ち上がったのがウスタッシュだった。“私が人質になろう”。彼の姿に鼓舞され、一人、また一人と、後に続いた。

 この年代記を読んだロダンの心は、感動で打ち震えた。“ウスタッシュの示した勇気の行動は、今もなお欧州の人々の間で語り草となっている。その記念碑に携われるとは、なんと栄誉なことだろう”。ロダンは、自らが金銭的な負担を背負ってもいいとの覚悟で、制作費も高額なものは請求せず、喜んでこれに応じた。

 どのように表現するか。それがロダンにとって究極の挑戦だった。伝統的に記念碑とは、一人の人物を中心に制作される。「しかし、ロダンは初めから、一人だけを輝かせるのではなく、市民を守った6人を組み合わせて彫刻を作ることに強い意志を示していました。この事件の重みを全員で受け止められるよう、均等にポーズを取らせたことは非常に斬新です」と話すのは、国立西洋美術館の馬渕明子館長。

 前例がないロダンの発想は、“もっと英雄らしい気高い姿を描写するべきだ”と非難を浴びた。ロダンは自身の心情を次のように語っている。「私の示そうとしたものは、あの時代の自分たちの名前も出さないで犠牲に身を投じたような市民だったのです」(高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』岩波文庫)


●紆余曲折を経て日本へ

 生活のために、装飾仕事に従事しつつ、人気があった彫刻家のカリエ=ベルーズに師事し、石膏取りや建築装飾など、どんな下請けも引き受けた。自作に師匠のサインが入る屈辱にも耐えながら、20年がたった頃、彼の人生に光が差し始める。

 1880年、ロダンの出世作である<青銅時代>が政府に買い上げられたのだ。さらに同年、<地獄の門>の発注も受けた。<カレーの市民>の依頼も、その延長線上にあった。

 現在、国立西洋美術館の前庭に設置されている<カレーの市民>が松方幸次郎により発注されたのは、1918年。松方はこの時期、日本に美術館を造ろうと、フランスで芸術品の収集に奔走していた。

 だが、<カレーの市民>が日本に送られて来たのは、それから40年以上も経過した1959年のこと。この間、もともと松方が注文した彫刻は、アメリカのコレクターに売却。それを補うために造られた次の作品も、第2次世界大戦中にナチスが買い上げてしまった。

●真実の勇者の証しとは

 馬渕館長はロダン芸術の魅力について、こう語る。

 「ロダンの彫刻は、ものすごく人間くさいんです。彼は、人間の持つ可能性をくまなく研究しました。人体の構造に始まり、動作、表情、内面の描写に至るまで、全てを解体して、一から作り直すことに躊躇がなかった。だからこそ、思いがけない組み合わせを発見できた。先入観を壊していく勇気があったのだと思います」

真実の勇者の証しとは
 馬渕館長はロダン芸術の魅力について、こう語る。

 「ロダンの彫刻は、ものすごく人間くさいんです。彼は、人間の持つ可能性をくまなく研究しました。人体の構造に始まり、動作、表情、内面の描写に至るまで、全てを解体して、一から作り直すことに躊躇がなかった。だからこそ、思いがけない組み合わせを発見できた。先入観を壊していく勇気があったのだと思います」

 目には見えない静かな勇気。華やかではない勇気。それが自分を変え、周囲を変え、世界を変えていく――。勇者たちのそんな魂の叫びが聞こえる。



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