Contents
RSS 2.0

ブログ blog page

2020.7.12-7

2020年07月11日 (土) 12:02
2020.7.12-

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

0186〜0237 開目抄 0198:04〜0198:08 
第21章 難信の相を示す

講義

 ここに大きな疑問が一つ生じる。死んで火で焼いて粉にして、なくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということは、あり得ないではないかということである。
 そこで、肉体にもせよ精神にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、さきに述べたことを記憶より呼び覚してもらいたい。さて、その前に、いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。われらが死ねば、肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へとけ込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へとけ込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。大宇宙の生命それ自体である。これを「空」というのである。「空」とは、存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現われてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という、二つの概念以外の概念である。たとえてみれば「あなたは怒るという性分を持っていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現わして見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現われてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。われわれの死後の生命も、この「空」という状態の存在である。されば縁にふれて五十年、百年または一年後に、ふたたびこの娑婆世界に前の生命の連続として出現してくるのである。さて、その生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態を通して連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。時間的の差異はあったとしても、生命が連続である以上、肉体も精神も運命も、過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。あたかも碁を打つ人が、一日打って半局面しか打ち切れない。そして、あしたにしようということになって、碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に収めてしまう。つぎの日、二人がまた碁盤を囲んで昨日打ち終わったところまで、昨日と同様に白黒の碁石を配置する。そして昨日のつづきを打ってゆくようなものである。
 生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して、宇宙より物質を聚めて肉体を形成するに過去世の連続とみなす以外にないのである。
 かくのごとく現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へとけ込み、「空」の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって生命体として発現する。かくのごとく、死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。


トラックバック

トラックバックURI:

コメント

名前: 

ホームページ:

コメント:

画像認証: