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◎大北方戦争
(だいほっぽうせんそう、スウェーデン語: Stora nordiska kriget、ロシア語: Великая Северная война、ポーランド語: III wojna północna、デンマーク語: Den Store Nordiske Krig、ドイツ語: Großer Nordischer Krieg、英語: Great Northern War、1700年 - 1721年)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成した諸国とがスウェーデンの覇権をめぐって争った戦争であり、近世の北欧、中欧、そして東欧における重要な画期となった。
◎オリーブの枝請願
(オリーブのえだせいがん、英:Olive Branch Petition)は、アメリカ独立戦争の初期に第二次大陸会議からイギリス国王ジョージ3世に宛てて出された請願文書である。
内容
大陸会議は流血沙汰を避けるために植民地の不満を軽減するよう、国王に対する最後の諫言としてこの文書を作成した。請願文書はジョン・ディキンソン達によって起草され、植民地を大英帝国の中に留めることを目指しでいた。しかし、イギリス本国はこの申し出を拒んだ。オリーブの枝請願は当時、今とは異なる名前で呼ばれていた。最も流布した名前は「国王に対する第2の請願」(The Second Petition to the King)あるいは「謙虚な請願」(The Humble Petition)であった。オリーブには旧約聖書創世記のノアの方舟の逸話の中で、ノアが放った鳩がオリーブの葉を銜(くわ)えて帰ってきたことから、平和の象徴としての意味が込められている。
大陸会議
(たいりくかいぎ、英: Continental Congress)は、英国本国の高圧的な植民地経営に対して北アメリカ13州の自治意識が高まり、1774年から開催された各植民地代表による会議である。第1次大陸会議と第2次大陸会議がある。アメリカ合衆国の独立承認後は連合会議(1781年 - 1789年)に発展するが、この連合会議を含めて大陸会議と総称することがある。
◎黒船来航
(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。
◎池田屋事件(いけだやじけん)
幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が襲撃した事件。
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0186〜0237 開目抄 0198:04〜0198:08 第21章 難信の相を示す
現代語訳
(爾前四十余年の経教は法華経迹門に劣り、法華経においては迹門が本門に劣る。しかし)日蓮がここで考えるのに、世間一般の人々にとっては、迹門に説かれた二乗作仏でさえ、爾前経の方が強くて迹門は信じがたい。すなわち二乗作仏の根拠は薄弱のように見える。しかし本門寿量品の久遠実成は、また比較にならないほど爾前で説くインドで成仏したという始成思想が強くて寿量品を信じがたいのである。その理由は、爾前と法華を相対するに、なお爾前の方が説時も長く、経も多くて、法華経が薄弱のようである上に、始成正覚を説く点においては、迹門十四品も爾前経と同一である。本門十四品の中でさえ涌出品、寿量品の二品を除いては、みな始成正覚の思想が存している。最後に、釈尊が入滅する直前に説いた大般涅槃経四十巻をはじめ、そのほかの法華前後に説いたもろもろの大乗経に一字一句もなく法身の無始無終は説いている。しかし応身および報身の本地をあらわして三身常住とは説いていない。どうして多数の爾前経、法華の本門・迹門、涅槃経等の諸大乗経をば捨てて、わずかの涌出・寿量の二品を信ずることができようか。