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◎池田青年室長が逮捕された7月3日午後7時というこの日この時刻は、くしくも、1945(昭和20)年に第二代会長戸田先生(当時理事長)が出獄したのと同日同時刻でした。
夕張から羽田経由で大阪に向かう池田室長を見送りながら、検察による取り調べの過酷さを身をもって知っていた戸田先生は、池田室長の肩を抱き「死んではならんぞ。大作、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」と語ったといいます。
また、池田室長が勾留されている間、戸田先生は衰弱した体をおして、みずから大阪地検に室長の不当逮捕への抗議に出向きました。池田先生は「足もともおぼつかぬ憔悴したお体で、手摺にしがみつくようにして階段を上り、大阪地検にも抗議に行かれた。後にその話を聞き、師のありがたさに、私は涙した」と語っています。
のちに池田先生は、7月3日にちなみ「出獄と入獄の日に師弟あり」と詠み、無罪の判決を見届けることなく生涯を終えた恩師を偲びました。
◎浪速の繁華街新世界を開発した際に、一帯のシンボルとしてパリのエッフェル塔を模して作られた通天閣は、当時一帯にあった遊園地ゲートルナパークとロープウェイで結ばれておりました。
◎第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。
日本の王から煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。
なお、煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。
◎財閥解体(ざいばつかいたい)は、国際政治方針で財閥などの巨大企業が解体される現象である。
日本では、1945年より1952年にかけて行われた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の1つ。→本項で詳述する。
ドイツでは、1947年より1951年にかけて連合国がIG・ファルベンインドゥストリーを解体した。
韓国では、1997年に発生したアジア通貨危機によって生じた財閥解体。→IMFによる韓国救済#財閥解体を参照。
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0186〜0237 開目抄 0197:11〜0198:03
第20章 爾前迹門の二失を顕わす
講義
「一念三千もあらはれず」等の文について
寛記には、迹門に一念三千を説くといえども二失があり、いわく本無今有と有名無実であると。まず本無今有については、いまだ発迹していない、すなわち迹を垂れているので今有である。いまだ顕本していない、すなわち本地下種等が不明であるがゆえ本無である。仏界がすでに本無今有のゆえに九界もまたそうである。これについては、
十法界事に
「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや」(0421:13)
この御文を合わせ拝すべきである。また迹門の一念三千はなぜ有名無実であるかといえば、迹門の中に一念三千の名を挙げているが、一念三千の義がない。ゆえに、
十章抄に
「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」(1274:05)
以上によって、迹門には久遠実成をいまだ説かず、したがって真実の一念三千も顕われていないことを知るべきである。つぎに