Contents
RSS 2.0

ブログ blog page

2020.6.23-4

2020年06月23日 (火) 01:02
2020.6.23-

◎趙 紫陽(ちょう しよう、ヂャオ・ズーヤン、1919年10月17日 - 2005年1月17日)は中華人民共和国の政治家。「第2世代」の政治指導者として中国共産党中央委員会副主席、国務院総理(首相)、中国共産党中央委員会総書記などを歴任。1989年の天安門事件で失脚し、2005年に死去するまで軟禁生活を余儀なくされた。

失脚と軟禁生活
6月23日、24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された[10]。党籍のみ、そのままとされた。

自宅軟禁下に置かれたものの外出は比較的自由にでき、趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、1997年9月、第15回党大会の主席団に天安門事件の再評価を求める書簡を送った後には、来客が追い返されたり外出を制限されたりした。失脚直後から長年の友人である宗鳳鳴が度々気功師として訪れ、談話をまとめた物が2007年に香港で出版されている。

一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。陳雲、李先念らが推薦した後継者の江沢民総書記が右顧左眄する様子を見て失望したという。

☆うこさべん【右顧左眄】
《名・ス自》右を見たり左を見たり、あたりの情勢をうかがってばかりいて、決断しないこと。?「いたずらに―する」

【一年前】
親父が亡くなったのが55歳。生きていれば92歳。
私が25の年。今年は62になる。実に37年?
母は結婚したのが23歳。未亡人になったのが50歳。
一緒にいたのが27年間。
一緒にいなかった年数の方が長いです。

私「やっぱり房子さんはじいちゃんに苦労したばい」
妻「苦労の連続だったんじゃない。その中で信心を貫いてこらしたけん。信心一筋。そのあとを潔さんと澄子ちゃんたちがしっかりと受け継いでいくのが、最高の追善回向になるとたい」
?

妻「ばあちゃんと一緒は今日までね」

【二年前】
◎「お父さん、最近シューシューしている?」
「しとるよ」
「そうね?さっき息の臭かった」
「………最近キスしてないけんな…」
「誰と」
?

【三年前】
◎12年ぶり、2回目、気温29℃
梅雨明けの沖縄に着きました。やっぱりちょっと暑いです。ホテルに9時に着いたら、妻は兎に角腹減ったと言ってレストランに直行?

こちらに来て気づいたのですが、明日6月23日は「沖縄の日」で、どこも公休日。だから明日は多分ポステイングだけになりそうです。
妻「あーそうやったね」
私「でも『沖縄の日』に種まきさせて貰うのも、何か意味があるかも」
妻「そうね、いい方にとっておこうかね」
?


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

0186〜0237 
開目抄 0196:15〜0197:11 
第19章 本門に久遠実成を説くを示す

本文
教主釈尊此等の疑を晴さんがために寿量品を・とかんとして爾前迹門のききを挙げて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏・釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり」等と云云、正しく此の疑を答えて云く「然るに善男子・我実に成仏してより已来無量無辺・百千万億・那由佗劫なり」等云云。
 華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、

現代語訳
教主釈尊はこれらの疑いを晴らさんがために、寿量品を説かんとして、爾前迹門で説いてきたことをあげていわく「一切世間の天人および阿修羅はみな今の釈迦牟尼仏が釈氏の宮を出で伽耶城の近くで道場に坐し、阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂っている」と。しかして、まさしくこの疑いに対して答えていわく「しかるに善男子よ、われ、じつに成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由佗劫である」と。すなわち華厳を始めとして般若・大日経等は二乗作仏をかくすのみならず、久遠実成をも説きかくしたのである。


トラックバック

トラックバックURI:

コメント

名前: 

ホームページ:

コメント:

画像認証: