◎歴史の浄化どこまで
英ポリティカル・コメンテーター ロバート・シュリムズリー
彫像は長く持つように作られるのに対して、人に対する評価は時代とともに変わることがある。
エドワード・コルストンは、彼が生きた17〜18世紀の基準では模範的なイングランド市民だった。故郷の英南西部ブリストルに莫大な資産を残し、救貧院や学校、教会の建設費用をまかなった商人だった。だが、その富の大部分は奴隷貿易で築いたものだった。しかも、たまたま奴隷制の利益を得たわけではない。王立アフリカ会社の副総督として、奴隷制に首までどっぷり漬かっていた。コルストンが勤めていたとき、同社は奴隷として売るために約8万4000人をアフリカから運んでいる。
人の顕彰は、過去の自分たちがどのような人間だったかを示す。同時に今現在、自分たちがどのような人間であるかも物語っているのだ。
◎ドラッカー
04一人の経営から経営チームへ
●何から何まで私ひとりで決めていた
「私に何かあったら、この会社はどうなってしまうんだろうか………。そう思うと夜も眠れたい日が続きました。すべてのことを私一人で決めていたからです。
3年前から経営チームをつくり、現在は、経営をチームで進めています。眠れない日はなくなりました」
いわゆる文鎮型の組織
「社長、これはどうすればいいですか―?」
私はすべて対応していました。
現在は、そういう声はもうありません。
今、社長としてやるべき仕事、本当に重要な仕事に時間を使えるようになりました。
●社長1人による経営は、あまりにリスクが高すぎる。
●トップのふたんを経営チームで分散している。
●経営チームは、それぞれの強みに応じて役割を分担している。
◎反日への最後通行
池萬元(テ・マンウォン)・元韓国陸軍大佐
朝鮮は花の国、日本は悪魔の国というのは共産主義者がつくり上げた虚像だった。
一三九二年李氏朝鮮が誕生して李氏の姓を持つ二十七名の王が、一九一〇年まで五一八年間統治したが、外国人が描写した首都・漢陽は、不潔で伝染病が蔓延し、嘘と陰謀が横行する辺境の地だった。
女性は、男性の奴隷であり、両班のために奴隷を産んでくれる生産道具であった。一割の両班が九割の同属を奴隷としてこき使い、その楽しみに耽っていたが、やがてやってきた弱肉強食の時代の趨勢から取り残されて滅亡した部族国家が即ち朝鮮だ。
2020.617
☆両班(りょうはん、??〈ヤンバン・韓国〉、??〈リャンバン・北朝鮮〉)
高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。
李氏朝鮮王朝時代には、
良民(両班、中人、常民)と
賤民(奴婢、白丁)
に分けられる朝鮮王族以外の身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。
「朝鮮の官人はみんなが盗賊」
「転んでも自分で起きない」
「箸と本より重い物は持たない」
30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は12〜13歳に笠を被った者から、「童」と呼ばれて下に扱われた。イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した。
マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で
「世界一傲慢な貴族階級」
として記録に残している。身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。
北朝鮮では
「三大階層五十一分類の上位、韓国でも国会議員、公務員、大学教授、財閥一族を現代の両班だとの指摘されている。
☆李成桂
(読み)りせいけい
(英語表記)Yi Sǒnggye
1335―1408李成桂 (R)I S?nggye李成桂 り-せいけい
[生]忠粛王4(1335).和州
[没]太宗8(1408).漢城
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) の第1代の王 (在位 1392〜98) 。全羅北道全州市出身。字は仲潔,のち君晋。号は松軒。諱は旦。廟号は太祖。女真および倭の侵入を撃退して勇名をはせた高麗の武人であった辛ぐう 14 (88) 年,明軍討伐のため出兵中に対中国外交の対象を元から明に改め,鴨緑江中の威化島で軍をかえし,ぐう王を廃して昌王を擁立,実権を掌握した。田制改革を実施し,旧特権層の地盤を打倒して自己勢力の基礎を固め,太祖1 (92) 年7月 17日即位し,翌年国号を朝鮮に改めた。開京 (現京畿道開城市) から漢陽 (現ソウル市) に遷都し,儒教を国家の指導原理と定め,成均館および各地に郷校を建て,政治制度を整備した。李成桂は即位7年目に次子定宗に王位を譲ったが,これは王位継承に関連した重臣の権力闘争に巻込まれたもので,王朝創建当初の王権および政情の不安定によるものである。