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2020.6.15-3

2020年06月15日 (月) 00:33
2020.6.15-

◎〈日蓮大聖人の慈愛の眼差し〉国府入道夫妻  
「広布に尽くす功徳は無量」
阿仏房・千日尼夫妻と共に純真な信仰を貫き、
迫害を恐れず大聖人をお守りした佐渡の門下

「国府入道夫妻は、私が佐渡国にいる間、人目を忍んで夜中に食べ物を届けてくださいました。ある時は国からの処罰も恐れず、日蓮の身代わりにさえなろうとしてくださいました」
(同1325ページ、通解)

◎未来に輝く知性の宝冠――池田先生の名誉学術称号45周年
クイーンズ大学ベルファスト
心を結ぶ対話の力

「この冬を生き抜けば、私たちはどこでも、夏を迎えることができる」
 
 世界中で新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化する昨今、この言葉が、再び注目を浴び、メディアやSNSで取り上げられた。
 
 戦禍で生まれた魂の叫びが、危機に立ち向かう人々の、希望と勇気の“源”となったのだろう。
 
 翌99年に発表した「SGIの日」記念提言で、先生は、“不治の病”とまでいわれた北アイルランド紛争が、対話路線によって和解へとたどり着いた事例を通して、相手を“敵”ではなく、同じ人間として見ることから、平和の糸口が開かれると述べた。


◎〈世界の名画との語らい〉
ドガ《舞台上の二人の踊り子》
都会生活の真実をありのままに写す 
伝統に抗し、新しい美学を主張

「一つ目は、“訓練された肉体の動き”に深い関心を寄せていたこと。二つ目は、矛盾していますが、その肉体の持ち主が気を抜いた時の、意外性のある態度に対する関心です。鋭い人間観察者だったドガは、表と裏の二面性を総合的に捉えたかったのではないでしょうか」


◎コルベール
●マザランの財産運用で頭角を現す

●アダム・スミスも称賛した能力

●敵を屈服させる鍵は帳簿にあり

●会計の技術は「会社」から「国家」へ
「国家の支出については、どの年も必ずすべての領収書を保管し、きちんと確認しなければならない」

「よき監査責任者になるためには、国王は簿記の基礎を学ぶ必要がある」

「会社」が「国家」に置き換えられている。つまり複式簿記を国王のための技術に作り直すという画期的な試みをしたわけだった。

さらに帳簿の分類・組織化も教えた。
「こうしておけば、国王自身で安全な場所に保管しておくことができ、簿記係に依存せずに済む」
もちろんコルベールは例外である。彼は生涯ずっと国家の帳簿を保管していた。
(帳簿の世界史)

●ジュール・マザラン
(フランス語: Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日)
17世紀フランス王国の政治家、枢機卿。イタリア人でイタリア名はジュリオ・マッツァリーノ(イタリア語: Giulio Mazarino)。ラテン語形はユリウス・ライムンドゥス・マザリヌス(ラテン語: Iulius Raimundus Mazarinus)なので、ジュール・レーモン・マザランとも。

●ジャン・バティスト・コルベール
(Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日)
17世紀のブルボン朝フランスの政治家。ルイ14世の財務総監(現在の大蔵大臣・財務大臣に相当するが、「省」レベルの規模の官庁を必ずしも指揮下に置かない)を長年務めた。

「国債は厄介者で、金利生活者はパラサイトである」と述べ、1661年と1664年に債務の元利をざっくりカットした。債権者側とおぼしき者に容赦なく罰金を課して、債券や担保を請負人に徴収させた。法定金利の引き下げ(5.56%から5%へ)も行っている。

●ベル島侯爵およびムラン子爵およびヴォー子爵ニコラ・フーケ(フケ)
(Nicolas Fouquet発音例、1615年1月27日 - 1680年3月23日)
フランスの法律家、財務官である。ルイ14世の下で大蔵卿を務めた。

●ヴォー=ル=ヴィコント城
(Château de Vaux-le-Vicomte)
フランスのセーヌ=エ=マルヌ県・マンシーにある17世紀のバロック様式の城。ルイ14世の大蔵卿ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)によって建てられた。フーケは当時最高の芸術家、すなわち建築家のル・ヴォー、画家のル・ブラン、造園家のル・ノートルを招いて建設にあたらせた[1]。この城の成功はルイ14世の不興を買い、フーケは没落し、建設に当った芸術家はそのままルイ14世によってヴェルサイユ宮殿の建設に従事させられることになった。

●アダム・スミス(Adam Smith、1723年6月5日[† 1] - 1790年7月17日[1])は、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者である。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『道徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)[2][† 2]がある。



◎マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)
(羅: Magna Carta、羅: Magna Carta Libertatum、英: the Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)
イギリス(連合王国)の不成典憲法を構成する法律の1つであり、イングランド王国においてジョン王の時代に制定された憲章である。イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した。成立から800年が経過した21世紀現在でも現行法となっている。

ジョン(John, King of England、1167年12月24日 - 1216年10月18日または19日)
プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。同朝の初代王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。通称は欠地王(けっちおう、John Lackland)または失地王で、出生時に父ヘンリー2世から領地を与えられなかったことに由来する。失政を重ねたことで国内諸侯の怒りを招き、王権を制限するマグナ・カルタへの合意を余儀なくされた。

◎コソボの戦い
(セルビア・クロアチア語: Bitka na Kosovu、ボスニア語: Kosovska bitka、トルコ語: I. Kosova Muharebesi)
1389年にコソボで勃発した、セルビア王国とオスマン帝国による会戦である。

◎明治三陸地震(めいじさんりくじしん)
1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度 [注 2])を震源として起こった地震である。マグニチュード8.2- 8.5[注 3]の巨大地震であった。さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高[注 4]だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた。

◎樺 美智子
(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)
学生運動家。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生である。曽祖父は鳥取県出身の数学者樺正董。
父は社会学者の樺俊雄。

樺 俊雄
(かんば としお、1904年3月2日 - 1980年12月23日)
日本の哲学者・社会学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした数学者樺正董の孫。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生樺美智子の父でもある。

1971年、創価大学教授。

1960年、娘で共産主義者同盟(ブント)の活動家だった樺美智子が安保闘争で圧死、『最後の微笑』を出版しベストセラーになった。


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