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2020.6.13-3

2020年06月13日 (土) 00:53
2020.6.13-

◎87歳現役 播州刃物の鍛冶職人 
百貨店で“実演販売”45年〈信仰体験〉
「一日に題目は、いったいどれぐらいあげたらいいんやろか」
 井上さんには当時、深い悩みがあった。友人の失踪で数千万円の借金を背負った。さらに、親の看病と2人の娘の子育てを一身に担っていた妻・和子さん=婦人部員=が、狭心症で入院。仕事も生活も立ち行かなくなっていたのだ。
  
 藁にもすがる思いだった井上さんに、担当幹部は答えた。
 「具体的な数はありません。ただ、『深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし』(御書384ページ)とあるように、命を磨くようにお題目をあげることが大切です」
  
 “命を磨く”との言葉に、心が震えた。

【寸鉄】
「信心と申すは別にはこ
れなく候」御書。倦まず弛
まず。不屈の祈りで前進
     ◇
「6・30」へ学生部が先駆
の月間。君の双肩に未来。
磨いた英知で社会を潤せ
     ◇
墨田女性の日。新時代を
開く麗しき婦女の連帯。
地域を照らす太陽と輝け
     ◇
流行前の暮らしに戻ると
都内で7月中に再流行―
試算。生活の新様式徹底
     ◇
各地で梅雨入り。正しき
リズムで体調管理。水分・
塩分補給で熱中症対策も


◎名字の言 脳科学者の茂木健一郎氏「過去は育つ」
過日、小欄で約70年前の神奈川・鶴見での池田先生の奮闘を紹介した。それを読んだ鶴見出身の方から「これが鶴見で先生が運んでくださったバケツです」と写真が送られてきた。時代を感じさせるブリキのバケツ。師との思い出が詰まっているように見えた

脳科学者の茂木健一郎氏が「過去は育つ」

「あなたが敗れれば、(任命した)私が敗れたことです」。“自分も負けてなるものか”と、再び題目の挑戦を開始した▼あの苦しい時があったから、今の自分がある。そう未来に振り返るであろう歴史の日々を私たちは生きている。(進)


◎島津 義久(しまづ よしひさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。

義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。

◎天津条約(てんしんじょうやく、英語: Treaty of Tianjin)は、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。

1856年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、その後さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でロシア・アメリカ・イギリス・フランスの4国と結んだものである。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。

◎寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日(1645年6月13日)、千葉城の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。

◎はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)は、2003年5月9日13時29分25秒(日本標準時、以下同様)に宇宙科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機で、ひてん、はるかに続くMUSESシリーズ3番目の工学実験機である。

イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星 (25143) イトカワに到達し、その表面を詳しく観測して[注釈 1]サンプル採集を試みた後、2010年6月13日22時51分、60億 kmの旅を終え、帰還し大気圏に再突入した[3]。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸してのサンプルリターンに、世界で初めて成功した。


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