◎北の湯けむり 踏ん張りどころ
母ありて〈信仰体験〉
「やっぱり題目だよ。絶対に乗り越えられるんだから」
人生の結論だった。世相の波風に目もくれず、信心を礎に人生の坂を上りきった母の声。思い出すと、絶対に大丈夫だという気持ちが、懐かしい笑顔と一緒に湧き上がる。
三瓶さんは今こそ「まことの時」(御書234ページ)と自分を鼓舞し、疑うことなく題目の根を張った。
【寸鉄】
世界一の「婦人部の日」。
希望広げる創価の太陽!
励ましの光を更に地域へ
◇
「須弥山の始を尋ぬれば
一塵なり」御書。一人への
激励。ここに広布の潮も
◇
群馬の日。難を乗り越え
ゆく信心を今こそ!師弟
の原点を胸に固き団結で
◇
専門でない人が番組等で
述べる対策は混乱の一因
に―関係者。賢く判断を
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人との会話不足で「心の
不調」感じる人が増加と。
電話等を上手に。絆強く
◎名字の言 アメリカ建国の父・フランクリンの実践
「時は金なり」の名言で知られるアメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン。彼は、こんな言葉も残している。「人間の幸福というものは、時たま起るすばらしい幸運よりも、日々起って来る些細な便宜から生れる」▼彼は自らの「道徳的完成」を目指して、勤勉・誠実・正義など、13の実践項目を手帳に記した。さらに、その一つ一つが実行できたかを毎日、振り返ったという。「良い習慣を作ってこれをしっかり身につけねばならない」と▼手帳には、1日24時間の使い方も細かく記されていた。その冒頭には毎朝、自らへの質問が。「今日はいかなる善行をなすべきか」。そして一日を終えた夜、再び自身に問う。「今日はいかなる善行をなしたか」(松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』岩波文庫)▼朝、清新な決意で出発する。目標に向かって、着実に行動する。日々、反省を怠らない――時代は変わっても、偉人の生き方から学ぶものは多い▼日蓮大聖人は「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし」(御書384ページ)と、持続の信心の重要性を御教示された。時間は万人に平等だ。だからこそ一日一日を大切に、自身を磨き抜きたい。その積み重ねによって、豊かな人生は築かれていく。きょう10日は「時の記念日」。(巍)
◎賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。
◎忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった[113]。
富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた[114]。
◎戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、中国清朝末期の1898年(=戊戌の年、光緒24年)に実行された、一連の政治改革の総称。明治維新と同様の立憲君主制による近代化革命(維新、上からの改革)を目指す変法自強運動の集大成にあたる。運動を担っていた康有為・梁啓超ら変法派の革命家たちと、彼らを受け容れた光緒帝によって、同年6月11日から改革が実行された。しかしながら、改革を嫌う西太后・袁世凱ら朝廷内の保守派が、同年9月21日にクーデター(戊戌の政変)を起こしたため、改革は強制的に中止された。実行された日数(103日間)の短さから「百日維新」とも呼ばれる。
清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。これは3ヶ月で西太后ら保守派が挫折し、康・梁は日本へ亡命した。
約30年前の1861年から、洋務運動が行われ中体西用をスローガンに新たな技術と知識を学び清朝の国勢は一時的に回復したが、旧体制を変えずに西洋技術のみを取り入れる洋務運動は日清戦争敗北により限界を露呈。
ただしこの改革の無残な失敗と譚嗣同の壮絶な死は、日本に留学している若者たちに大きな心理的影響を与え、さらに翌年の義和団の乱で清朝が見せた醜態は、政権交代の必要を強く感じさせるに至った。こうした中、一方では梁啓超らの「保皇会」などのあくまで清朝を前面におしたてて中国を危機から救おうとする勢力が生まれた。しかし、反対に孫文・黄興・唐才常・宋教仁らは清朝が既に政権担当能力を失っているものとみなし、漢民族による新政権が必要であるの認識の下、革命運動に身を投じるのである。
◎武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争で行なわれた戦いの一つ。武漢三鎮攻略戦、武漢攻略戦とも呼称される。中国側の呼称は武漢会戦。または武漢保衛戦という呼称もある。
日中戦争の一つの節目とされる戦いである。武漢まで戦線を広げる事になった日本軍は、天然の要害である首都重慶の攻略が困難な事を悟らされてそこで手詰まりとなり、以降は終結への道筋が付かない泥沼戦争に引きずり込まれた。
徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は1938年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。