【寸鉄】
「法華経に名をたて身を
まかせ給うべし」御書。
題目根本の人生は無敵!
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理想を抱き足元から実践
―牧口先生。広布の戦い
は常に“今ここ”にあり
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1分間の会話でウイルス
飛沫が1000個―研究
マスク着用、換気を徹底
◎名字の言 幕末の志士・高杉晋作が病床で詠んだ句
「おもしろきこともなき世をおもしろく」。肺結核を患った幕末の志士・高杉晋作は、病床でこう詠んだ▼敬愛する師・吉田松陰は、罪人として裁かれ、命を奪われた。海外を巡りたいという望みもかなわなかった。晋作にとって幕末は、いわば“思い通りにならない時代”。それでも、師の仇討ちを誓い、維新回天の流れを開いた。激動の27年の生涯は、今なお多くの人々を魅了してやまない▼冒頭の句に、幕末の女性歌人・野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けたとされる。面白くない世の中を、面白くするのは自分次第、となろう。自身の置かれた境遇を嘆いていても、何も変わらない。むしろ、困難な現実と格闘し、活路を開く逆転劇に、人生の面白さはあるものだ▼池田先生も若き日、肺結核に苦しんだ。医師からは「30歳まで生きられるかどうか」と言われた。先生は「だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きよう、片時も無駄にせず、生あるうちになすべきことをなそう、と完全燃焼で生きてこられた」と振り返っている▼御書に「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(970ページ)と。コロナ禍の前も今も、一日は一日。心一つで、人生は大きく変わる。さまざまな変化に賢明に対応しつつ、自他共に価値ある日々を朗らかに創造したい。(芯)
◎婦人部の歴史は、世界広布を現実のものとした創価の師弟との不二の闘争とともにある。自身や家庭、地域の宿命転換のための懸命な奮闘が、自他共の幸福を目指す民衆城を築いてきたのだ。
池田大作先生は、その厳然たる事実をたたえ、つづっている。
「偉大な『生活博士』『幸福博士』の婦人部の皆さま方は、今日もまた、きらめく智慧と勇気で、『皆が幸せに』『地域が安穏に』と、誠実な対話の波を広げておられる」「何があっても、私たちは負けない。絶対に負けない。創価学会に、『絶対勝利の信心』と『師弟不二の誓願』があるかぎり! そして『世界の太陽』たる婦人部が、生き生きと燃え輝いているかぎり!」
世界の婦人部の友は、幸福のスクラムをわが使命の舞台に広げながら、異体同心の団結で、結成の月を勢いよく進んでいる。
永石婦人部長は力を込めて語る。
「師匠と共に、永遠不滅の栄光の大広布城を築くのは今です。題目の渦を巻き起こし、地涌の陣列を大拡大してまいりましょう!」
(2017年6月10日付 聖教新聞)
◎「日本書記」の天智天皇10年4月25日(グレゴリオ暦換算671年6月10日)の項に、漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。とあることから。「漏刻」とは水時計のことである。
◎首都北京近辺における義和団の横行を許したのは、義和団の強大化だけが原因ではない。西欧列強の強い干渉によって清朝は鎮圧を行おうとしたが、義和団の「扶清滅洋」(ふしんめつよう、意味:清を扶〔たす〕け洋を滅すべし)、あるいは「興清滅洋」(清を興〔おこ〕し洋を滅すべし)[注釈 2]という清朝寄りのスローガンに対し、さきの毓賢同様同情を示す大官が複数おり、徹底した弾圧には至らなかった点も原因の一つである。列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じであり、義和団への対処に手心を加えることとなった。一説にはおよそ20万にのぼる義和団が北京にいたという。
こうして義和団が我が物顔で横行するようになり、しばらくすると、不測の事態が発生し清朝を慌てさせた。1900年6月10日、20万人の義和団が北京に入城する[3]。甘粛省から呼ばれて北京を警護していた董福祥(とうふくしょう)[注釈 3]配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が殺害され、6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(Clemens von Ketteler)が義和団に殺害された[3]。
◎承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。
軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。
後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。
◎劉備は病を発し病床に臥せってしまう。章武3年4月24日(223年6月10日)、劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「そなたの才能は魏の曹丕の10倍はある。必ずや国に安定をもたらしてくれる事だろう。我が子(劉禅)が皇帝としての素質を備えているようならば、彼を補佐して欲しい。だが、もし我が子が補佐するに足りない暗愚であったならば、迷わずそなたが国を治めてくれ」、「馬謖は自分の実力以上の事を口にする。だから彼に重要な仕事を任せてはいけない。そなたはそれを忘れずにな」と言い遺し、息子たちに対しては「悪事はどんな小さな事でも行ってはいけない。善事はどんな小さな事でも行いなさい。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の著と伝えられる兵法書)』・『商君書(商鞅の著と伝えられる法律論)』等々を読んでしっかり勉強しなさい。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えなさい。いささかも怠ったらばお前達は不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩御した。享年63であった。