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2020.6.3-4

2020年06月03日 (水) 00:32
2020.6.3-4

【寸鉄】
「いよいよ・はりあげて
せむべし」御書。信心の闘
士は苦難に遭うほど強く
     ◇
沖縄市の友が逆転勝利へ
奮戦。今こそ総立ちを!
圧倒的な拡大で競り勝て
     ◇
豊島女性の日。婦女一体
で進めば無限の希望が。
皆が新たな歴史開く主役
     ◇
迷惑電話が昨年比3倍。
“給付金”便乗の詐欺目的
も。声掛け重ね断固撃退
     ◇
乳幼児の熱中症死、半数
は車内放置が原因。「少し
だけなら」の油断排して

◎名字の言 ブルーインパルスの飛行を見た友からの電話

「仕事とはいえ、今回に限らず、さまざまな災害支援に尽力してきた自衛隊の皆さんは、いわば感謝される側です。それなのに頑張る他の人たちに感謝のエールを送るなんて……」

「今日まで私が病に負けなかったのは、師や同志の激励のおかげです。今後、講演などで各地に行った際、出会った人の励ましに使ってもらえればと思って」

試練に負けまいと戦う人だからこそ、苦難と戦う人を心から励ませる。同苦の心はつながっていく。(城)


◎第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 ? 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。

◎林 則徐(りん そくじょ、Lín Zéxú、1785年8月30日(乾隆50年7月26日) - 1850年11月22日(道光30年10月19日))は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。

1839年(道光19年)、広東に到着した林則徐は、イギリス商人が持っている阿片を全て没収し、処分した。これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的に阿片戦争を引き起こすことになった(詳しくは阿片戦争の項を参照)[2]。

◎1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島の領有は終了した。

大火砕流の発生
6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、15時57分には最初の大規模な火砕流が発生した。この火砕流と(火砕流から発生する)火砕サージは報道陣が取材に当たっていた「定点」には至らなかったものの、朝から降り続いた降雨に加えて火砕流から発生した火山灰が周囲を覆ったため、「定点」付近の視界は著しく悪化した。


◎長澤 まさみ
(ながさわ まさみ、1987年(昭和62年)6月3日 - )は、日本の女優。本名同じ。愛称は、まあちゃん、まっさん、がっさーわー[注 1]。身長168cm[1]。東宝芸能所属。 静岡県磐田市出身。堀越高等学校卒業。

母親やその友人らの勧めで第5回(1999年度)東宝「シンデレラ」オーディションに応募し、35,153人の中から2000年1月9日に当時、史上最年少の12歳(小学6年生)でグランプリに選ばれ、芸能界入り。同年公開の『クロスファイア』で映画デビュー(クランクイン:2000年2月9日、上映2000年6月10日)。その後、ティーン雑誌『ピチレモン』の専属モデルとなった。


【一年前】
◎ NHK朝ドラ【なつぞら】
吉沢亮・天陽(てんよう)
妻「国宝級イケメン! お父さんも国宝級ばってん………
違った意味で国宝級ばってん??」

【二年前】
◎ケント・ギルバート氏
メディアの役割は「権力を監視する」前に、「事実をそのまま伝える」こと。
――朝日、毎日、西日本、琉球………
本当に酷い?


【三年前】
『家族はつらいよ2』を観てきました。
毎月1日は半額の一人1,000円で、奥さんはお昼、私は夜9時過ぎから。
今思い出しても…うふっ…クスクス…あはっ!
思いっきり笑ってきました。?

運転免許証の返納で前代未聞の大騒動!
……同級生、無縁社会、家族……
パート1にも増して面白かったです!
主人公の長女が税理士、長男は上海へという設定も、私と共通してるやん……
笑うと健康にいいですね♪?

テーマがまたいいーー
その悲劇も、きっと明日は“喜劇”になる!
?




◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

開目抄 

第16章 滅後の難信の相を明かす 0195.07〜0195.12

現代語訳

以上のごとく、爾前四十余年の経教と、後八年の法華経とは相違していて、釈尊の所説には信じがたいものであるが、釈尊在世においては、四十余年の経を捨てて法華経につく者もあったであろう。しかし、釈尊滅後に法華経を聞き見て信受することはむずかしいことである。まず一つには、爾前の経々は多言であり、法華経はただ一言である。爾前は多くの経があり、この法華経はただ一経である、彼々の爾前経は四十余年の多年にわたっており、この法華経は八年である。


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