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2020.5.29-3

2020年05月29日 (金) 00:43
2020.5.29-

【寸鉄】
「月月・日日につより給
へ」御書。心新たに朝を
勝つ!清々しい勤行から
     ◇
沖縄市の友、頑張れ。反転
攻勢へ全国から大声援!
民衆パワーで断固勝利を
     ◇
宮城県婦人部の日。青葉
の誓い忘れまじ。試練の
時こそ希望の励まし拡大
     ◇
空気清浄機に漂白剤投入
は厳禁。やけど、失明の
恐れも。使用方法を守り
     ◇
2歳未満はマスク不要、
窒息や熱中症の危険が―
日本小児科医会。要注意

◎名字の言 
名将・野村克也さんが語る。「グチ」と「ぼやき」の違いとは?
球界の名将・野村克也さんは「ぼやきのノムさん」とも称された。この「ぼやき」を、野村さんは名将らしい言葉で、こう紹介している。「グチは、『不満』を表現するものである/ぼやきは、『理想と現実の差』を表現するものである」(『凡人を達人に変える77の心得』)▼ぼやくことは、理想を目指す途上にある自身の「現在の立ち位置を確認する行為」なのかもしれない。志をもち、努力を重ねるならば、ぼやきは、わが情熱の炎をいや増す“薪”にもなろう▼皆で集っての会合が開催できない中、オンライン画面を通して顔を合わせることが多くなった。ある友は、会えないもどかしさを感じつつ、実際にやってみると、思わぬ効果があったという。「高齢や家族の介護などで、以前は会館に来るのが難しかった方々が、これならと多数参加してくれたんです」▼直接会って、じっくり語り合うのが一番いいに決まっている。それができない現実にぼやきたくもなるが、少しでも励ましを送りたいと知恵を働かせれば、手段は無限にあることに気付く▼池田先生は、信仰者のあるべき姿を「現実を妥協なく見つめ、その現実に唱題根本で敢然と立ち向かう」ことだと語る。より良き未来へ、新たな価値を創造する学会活動の在り方が求められる。(代)


◎平禅門の乱(へいぜんもんのらん[1])は、鎌倉時代後期の正応6年4月22日(1293年5月29日)に鎌倉で起こった政変。鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を振るった平頼綱が、主君である9代執権北条貞時によって滅ぼされた。

得宗家の執事である平頼綱は、8代執権北条時宗が死去し、その子貞時が9代執権となった翌弘安8年(1285年)、政治路線で対立していた有力御家人安達泰盛や泰盛派の御家人を霜月騒動で討伐した。その後しばらくは、頼綱は追加法を頻繁に出すなど手続きを重視した政治運営を行っていたが、弘安10年(1287年)に、7代将軍源惟康が立親王して惟康親王となった時期に政治姿勢を一変させ、恐怖政治へと邁進した。

貞時は、自身の乳母父でもある頼綱に支えられて自らを頂点とする得宗専制体制を敷いたが、頼綱の権勢に不安を抱くようになる。ついに正応6年(1293年)、鎌倉大地震の混乱に乗じて貞時は鎌倉・経師ヶ谷の頼綱邸への襲撃を命じ、頼綱は自害し、その子飯沼資宗も討たれ、炎の中で一族93名が死亡した。混乱の中で貞時の娘2人も死亡している。霜月騒動の影響の甚大さに対し、平禅門の乱はあっけなく終わった。

◎レニャーノの戦い(レニャーノのたたかい、イタリア語: Battaglia di Legnano)は、1176年に北イタリア・ロンバルディア地方のレニャーノで行われた、神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟との戦闘である。ロンバルディア同盟が勝利を収め、皇帝フリードリヒ1世による北イタリア支配の試みを頓挫させることとなった。

中世イタリアにおける教皇派と皇帝派の抗争の中に位置づけられる戦闘であるが、近代にイタリア統一運動が盛んになると「イタリアが連帯して外国支配に勝利した戦い」として評価され、「イタリア愛国主義のよりどころ」になった。

◎備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代におきた戦い。天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)[注釈 1]とも呼ばれる。


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