◎池田大作研究/佐藤優氏
〜世界宗教への道を追う〜第21回
社会主義国で続くため息
宗教批判の限界を示す
マルクス・レーニン主義者から繰り広げられた宗教批判。
だが、それには限界があると池田は分析した。社会主義国では、その政治思想自体が絶対視され、宗教的機能をはたしているととらえた。
創価学会第3代会長の池田大作は、マルクス主義の宗教批判の本質が、マルクスやレーニンというカリスマに対する信仰から生じている、宗教を否定する形の宗教であると理解している。
〈マルクスとレーニンという二つの権威の高峰は、その陣営において、彼らの宗教観に対するいささかの懐疑をも圧殺してきた。しかし、現実を圧殺することはできない。現実は常に生き、生き続けているからである。
複雑にして膨大な現実のすべてを、国家・社会という概念のなかにつつみ込むことはできない。彼らがつつみきれない世界――人間の生命、そして生命の働きこそ、現実を生み出している本源なのである。………〉
炭労(日本炭鉱労働組合)の幹部は、思想的に労農派マルクス主義に依拠していた。労農派マルクス主義者は、社会主義協会を結成し、「左バネ」として日本社会党に強い影響を与えていた。社会主義協会は日本共産党とは対立していたが、両者ともに自らをマルクス・レーニン主義者であり、科学的社会主義者であると自己規定していた。労農派と共産党の宗教観にはほとんど差がなかった。両者とも宗教を「民衆の阿片」であるととらえていた。労農派も共産党も、創価学会が労働者階級の団結を崩す危険な組織であると考えていたのである。しかし、この人たちは、創価学会の内在的論理をつかもうとしない。創価学会が、国家・社会の成立以前から、宇宙的規模で実在した生命の世界を無視しては、人間存在の全き理解はないと考えていることが理解できないのだ。
●宗教に関する無知は最大のものの一つ
〈宗教に関する現代の無知は、あらゆる現代の無知のなかで、最大のものの一つではなかろうか。碩学(せきがく)マルクスでさえ、はなはだ杜撰(ずさん)であった。さまざまな宗教の功罪について、また、その高低浅深(こうていせんじん)について、深く思いをいたす現代の識者は、まことに皆無に等しい。この事実は、現代社会における、最大の不幸の一つといってよい。現代の人間の不幸の根が、実は、このような無知にあることを、人びとは、ほとんど気がついていないのである。〉
池田は炭労幹部の宗教に対する無知を指摘することが最良の策と考えた。
これは、折伏の一形態だ。
〈宗教を論じるからには、何よりも、その宗教の本質をまず問うべきである。信じるものが、なんでもよいとは断じて言えないことは、日常の飲む水が、水なら、どんな水でもよい、などと言えないと同様である。選択は、宗教に関しては、ことに厳しくなければならない。人生に深くかかわるからである〉