◎戸田先生は戦時中、初代会長牧口先生とともに軍国主義に反対し、治安維持法違反、不敬罪の容疑で逮捕投獄されますが、信念を曲げることはありませんでした。終戦の直前に出獄した戸田先生は、日本の惨状を目の当たりにして、「この世から“悲惨”の二字をなくしたい」と、学会の再建に一人立ちました。
会長就任の際に自らの願業として掲げた75万世帯の弘教の達成、『日蓮大聖人御書全集』の発刊、後継の青年たちに託した「原水爆禁止宣言」??。戸田先生の偉大な業績は数えきれません。
桜の花の咲くころに…
戸田先生の遺言は、現在の創価学会の宗教改革運動の原点となりました。
人生の最後の総仕上げともいうべき諸行事を終え、病の床についていた戸田先生は、愛弟子である池田先生(当時青年室長)に「追撃の手をゆるめるな」と言い残します。
4月1日、極度の衰弱から駿河台の日大病院に入院した戸田先生は、翌4月2日の午後6時30分に逝去されました。生前、「桜の花の咲くころに死にたい」と語っていたとおり、東京には五分咲きの桜が薫っていました。
マスコミの“予測”を覆す学会の大発展
戸田先生の死を受けて、当時のマスコミや評論家は、「指導者を失った創価学会は空中分解する」と、書き立てました。しかし、池田先生(当時青年室長)の存在が、そうした“予測”を覆しました。
戸田先生逝去の1か月後に開かれた春季総会で、池田室長は、7年ごとに学会が節目を刻み、発展してゆくという「7つの鐘」構想を発表しました。偉大な師を失った悲しみに打ちひしがれていた学会員の、心の暗雲を払う、壮大な目標を掲げたのです。
その後、池田室長は総務に就任し、戸田先生亡き後の学会の指揮をとります。池田総務は全国各地を巡り「戸田先生の精神の継承」を訴え、会員に指針と確信を与えました。会員は池田総務の渾身の激励に、新たな希望を見いだしていきます。やがて、第三代会長に就任した池田先生のもとで、学会は今日にいたる大発展を遂げたのです。
参考資料
『人間革命』 第12巻「寂光」「新・黎明」
『新・人間革命』 第4巻「春嵐」
『池田大作全集』 第22巻
『法華経の智慧』 第1巻
『随筆 平和の城』
◎黄巾の乱
(こうきんのらん、簡体字: 黄巾之乱; 繁体字: ?巾之亂; ピン音: Huángjīn zhī luàn)は、中国後漢末期の西暦184年(中平元年)に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした中国史上初の組織的農民反乱である。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。
◎元弘の乱
元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
【一年前】
◎新元号ーー私の予測
1.和世(わせい)w
2.安和(あんわ)a
3.惠潔(けいじ)k
妻「なんそれ??( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
それはわが家の元号にしとかんね」
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開目抄
第五章 内外相対して判ず 01880.06〜0188.13
一字一句・皆真実なり
ここに大聖人は釈尊一代の聖教は、みな真実なりと申され、一方で釈尊は無量義経に「四十余年・未顕真実」と説いている。一見すると、これは矛盾するように見えるかもしれない。
しかるに、これは、どちらも正しいのである。では、どうして、両方とも正しいかといえば、所対によって判じなければならない。ゆえに「されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥オンの夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり」と申されているのである。すなわち、三惑未断の凡夫たる外典・外道の聖人の所説にくらべれば、仏の説かれた所説ははるかに高速にして真実である。
しかし、その仏の50余年の説法の中ではじめて40余年は、最後の法華経を説くための序分であり、方便であって、人生の根本の悩みを解明しきってはいない。要当説真実と宣言せられて説き出された法華経こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生を得脱せしめる力があるのである。
そして、末法今時に出現あそばされた御本仏日蓮大聖人の三大秘法の大白法にくらべれば、この釈尊の法華経といえども、序分であり、方便に過ぎないのである。