【寸鉄】
『新・人間革命』こそ時を
超えて読み継がれる名作
―学長。今日も心に刻み
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「根深ければ則ち条茂く」
御書。信心の根しっかり。
張りのある勤行から出発
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精神を前向きにするのは
良き人間関係―心理学。
学会の励ましの絆こそ宝
◎日興(にっこう)
寛元4年3月8日(1246年3月26日) - 元弘3年 / 正慶2年2月7日(1333年2月21日))
鎌倉時代の僧侶。日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる。
日興は1246年(寛元4年)3月8日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)で誕生した。
日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精「家中抄」)。
日興は佐渡においても弘教に力を注ぎ、佐渡における日蓮門下の中心的存在となった阿仏房の入信も日興の働きが大きく、阿仏房一族はじめ佐渡の門下は日蓮滅後においても日興門流に属している。この点について『日蓮宗宗学全書』の「日興上人略伝」は「文永八年聖祖佐渡遠島の事あるや、上人(日興)また従て佐渡に渡り、在島三ヶ年常に師側に侍して、薪水の労に服す。阿仏房等上人の化縁佐渡に存するものあるは是が為めなり」(『日蓮宗宗学全書[8]』第2巻1頁)と述べている。
入滅
日興は、元弘2年(1332年)11月、最終的に大石寺を日目に譲ることを明示した「日興跡条条事」(『日蓮宗宗学全書』第2巻134頁)を日目に授与し、元弘3年(1333年)1月には「日興遺誡置文」26箇条(『日蓮宗宗学全書』第2巻131頁、『富士宗学要集』第5巻)を定めて門下一同に未来にわたる指針を示した。冒頭には「富士の立義いささかも先師の御弘通に違せざること」(第1箇条)、「五人の立義一一に先師の御弘通に違する事」(第2箇条)と改めて五一相対を強調している。
◎パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris Commune)は、フランス・パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、同時期にフランス各地で蜂起したコミューン(仏: la Commune)のうち普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言した1871年のパリのコミューン(仏: La Commune de Paris 1871)について説明する。
このパリ・コミューンは約2か月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。マルセイユ(1870年9月5日宣言)、リヨン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ、ナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブル、リモージュなどの、7つの地方都市でも同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された。
【一年前】
◎「魯迅池田大作桜観桜会」
50人以上が集まりました。
まだ七部咲きというところでしたけど、来週だと雨降って散り始めるだろうということでした。
1974年、先生が初訪中の際に魯迅故宮へ。
先生は様々な場所で魯迅のことをスピーチや講演され、その後、魯迅記念館の方から先生の思想に感銘し、名誉館長。
2012年8月に魯迅記念館池田大作写真展
2013年11月桜8本植樹
「観桜会」は今年4回目。
ちょうど「大誓堂」が完成した年で、大誓堂も八本の柱で荘厳され、魯迅記念館の桜も八本植樹。「八は開く議」。
「皆様の人生と中国の広宣流布が少しでも開きますよう乾杯?」
私「皆様の中で福岡市諫早区でお知り合いがいらっしゃいましたら、是非ご一報を入れて下さい。先生の今日はうちも一日拠点闘争しています」
横の女性「私の同期も諫早で地区婦人部長しています」
【二年前】
◎妻と娘は息子のいる大阪へ
朝、新大牟田駅まで送っている車内で、
私「今晩は寝室で寝るとさみしかけん、一階の仏間に布団敷いて寝るけん」
妻「ならそげんせんね。今晩だけでなく、もうそろそろ夫婦別室の方がいいやろ、ずっと一階でよかよ」
「……俺は隣に誰か寝とかんといかんとたい」
「誰かて誰ね」
?
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開目抄 0186〜0237
第四章 外道の三徳 0187.08〜0188.05
されば、彼らの幸福に対する考え方は、儒教の現世的、近視眼的なものではなくて、より遠視眼的なものになってくる。よって生命の本質は何かであるということを考えざるを得ない。そこで、一生・二生・三生乃至七生・八万劫をしる、となればこの過去・現在・未来を通じた、一貫した生命の本質は何であるかと考えるのが当然である。されば因中有果といって、人生の苦しみや幸福は、因果が一体なものであるとなす説や、あるいは因と果とは別個なものであって、人生の幸福・不幸は自然のものであるから、あきらめる以外にないとする説や因中に、時には果があり時には果なしとする因中亦有果・亦無果というような説も生じたのである。つえに彼らはこれを極説となして互いに論争し、また、この法をば実践行動に移して、一日三度恒河に入ったり、あるいは髪を抜いたり、巌に身を投げたり、あるいは身を火であぶって五体を焼き、あるいは裸形になり、あるいは馬を殺せば幸福になるといったり、あるいは草木を焼いたり、一切の木を拝んだりしたのである。これとて、最高の仏教哲学から見れば、ほんとうの子供だましであって、なんら得るところのないのはもちろんである。