◎バトンを青年部に託す
「3.16は、師から弟子への『継承』の日であり、『後継』の弟子が立ち上がる日である。その意味で、この日は、永遠の『出発』の日である」
◎渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、日本の実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現、二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。
◎江戸時代より主にビタミンB1の欠乏による神経障害疾患の脚気かっけは、死を呼ぶ伝染病などと囁かれており、
当時は原因の特定が出来ておらず、治療が非常に困難
な難病とされておりました。
が、鈴木梅太郎、米ぬかや玄米などに脚気を予防して快復させる成分があることを発見した鈴木博士は、栄養欠乏説を発表。
その成分をもとにチアミン(ビタミンB1)の抽出に成功し、難病とされていた脚気の症状を快復可能なものへと導きました。
「ビタミン」の名称定着
鈴木梅太郎博士は、米ぬかから抽出したチアミンを含む新しい栄養成分にオリザニンと命名。
命名したのは抽出成功から2年後となる1912(明治45)年
時をほぼ同じくして、ヨーロッパでも1911(明治44)年にポーランドの化学者カシミール・フンク博士が鈴木梅太郎博士と同じ栄養素を発見。
カシミール・フンク博士は、
vitaビタ
:生命
aminアミン
:必須有機化合物
の単語を組み合わせ
カシミール・フンク
C・フンク博士
ビタミン(ヴァイタミン)と命名し、1911(明治44)年に学会へ発表。
「オリザニン」と「ビタミン」は同じ栄養素であり、
発見自体は鈴木博士の方が早かったものの、国際学会での発表はカシミール・フンク博士の方が早かったため
ビタミンの名称が定着したとされております。
【一年前】
確定申告総括
新規が18件?
日々のお題目で、『福運』が所員とお客様に浸透してきていることを感じます。関与先名簿も整理し、総計321件。
この2年間で20件増えています。
【二年前】
確定申告総括
新規15件?
売上高1,000万円を初めて越えた??
やっぱり一人一人のお客様が大事?
【三年前】
昼前「おー!純増でプラス1件!」
そのあと2件の飛び込み。
確定申告は、新規18件!
純増3件の246件?
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開目抄 0186〜0237
第三章 仏教の初門となすを明かす 0186.12〜0187.07
講義
この二・三章は儒家を釈されているが、第一に三皇・五帝・三王と、儒家で尊敬する人の本尊を挙げ、第二に「此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり」と所説の法を示し、第三に「かくのごとく巧に立つといえども」以下は仏教の立ち場から、これを批判されている。批判の中においても、またその法を破し人を破して後、孔子が此の土に賢聖なしといえるを挙げて以降は、儒教を会入して仏教の初門となすべきことを示されている。
儒教のごときは、まったく現世の道徳修養の道を教えているに過ぎない小法で、野蛮人の幼稚な子供には、孝行せよ、人に迷惑をかけるな等の教えが必要であっても、現代のごとき邪悪の世界には、まったく通用しない小法である。ウソを言うべきでないくらいの道徳なら、だれでも知っているが、しかしウソをつかない人間がどこにいるか。まったくウソだらけの世の中である。ゆえに道徳も真実の仏法が核心となり、その根源に立たない限りまったく無用の長物である。
そもそも宗教の目的は、永遠の生命の中に安住せしめるにある。すなわち永遠の生命を感得する事がもっとも大事なことで、永遠の生命を認めるならば、過去・現在・未来の三世の生命観を確立せざるを得ない。されば、過去の生命を因として現在の生命の果となる。現在の生命がまた因となり未来の生命が果となる。この三世流転の生命が因果の法則に支配されることはいうまでもない。この因果の法則を立て得ない儒教では、真実の人生観の確立はあり得ないから、仏教に対して儒教を外道というのである。されば本抄において「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」とおおせられているのである。
儒教においては、現在をいかにしたならば幸福になるかということを教えるのであるが、結局は過去・未来を知らないから大聖人のおおせのごとく「父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」と申されているのである。不知恩とは、主師親の三徳に現在・未来を通じて報恩しないということであって、恩を報ぜぬということは人間の特権を放棄し、禽獣に同ずることである。
つぎに、「月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す」という思想は、現在の科学一点張りの社会には不思議に感ずるであろうが、完全に、真実に発展された東洋の生命哲学よりすれば、まことなりとうなずくことができる。三世の生命観に通達するならば、弘決において、このようにいい切った事は確かなことと認めるであろう。