◎1870(明治3)年のこの日、西村勝三が、東京・築地入船町に日本初の西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を開設した。
陸軍の創始者・大村益次郎の提案によるもので、輸入された軍靴が大きすぎたため、日本人の足に合う靴を作る為に開設された。
◎曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。
建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。
◎『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)[1]。史書として間違いが少ないとされている[2]。
◎2011年3月15日(東日本大震災)
東日本大震災により、日経平均は前日比1,015.34円安
原因&考察
東北地方太平洋沖地震の発生に伴なう経済活動への影響が懸 念されたことなどから下落しました。
14 日の下落は、東北地方太平洋沖地震を受け、直接的な被害を受けた企業の工場や、輸送網などインフラ面で の損害を見越した企業業績への懸念に対する売りが要因とみられます。一方で、本日の下落は、福島原子力発電 所における事故が、日本経済活動全般に大きな悪影響を及ぼすとの懸念が生じ、国内外の投資家からの売りが殺 到したことに拠るものとみられます。
(野村アセットマネジメントより抜粋)
実際地震が起きたのが3月11日であることを考えると、地震の被害規模が明らかになるにつれて株価も下がっていた様子です。
特に福島原子力発電所における事故の影響が強かったと思いますが、15日のローソク足を見ると、「下ひげ」と呼ばれるひげが長く伸びています。
これは、一旦大きく下落した後、多くの投資家が底値に近いと判断し買い戻した結果起こる現象です。
大幅な下落時には「下ひげ」の出現に注目することも大事ですね。
肝心の株価ですが、一時的に戻したものの実態経済の先行き不透明感もありその後しばらく低調だったことがわかります。
【一年前】
◎朝の食卓
妻「そのシチュー、恵ちゃんが作ったとよ」
私「そうね??美味しか。
この前のお好み焼きも絶品やった」
妻「料理は抜群やん」
私「あとは結婚するだけね」
娘「お父さんが結婚できたから大丈夫?」
妻「アハハハハ………」
娘「お母さんはお見合い三回で、お父さんは一回で、結婚できてよかったね」
妻「アハハハハ………( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆」
私「お父さんとお母さんが結婚したけん恵ちゃんが生まれたとよ」
娘「ならなんで浮気したと?」
妻「アハハハハ………( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
朝からパンチ?くらったね。
娘に勝とうと思うことが間違い。
パンチくらうから至らんこつ言わんがよかよ」
??
【二年前】
◎朝
妻「この前は朝を食べんで出掛けたら、腹減って腹減って、お父さんが山Pに見えてきた。相当おかしかったよ。お父さんが渥美清に見えるときはまともばってん」
「朝からFBのよかネタのできたばい」
?
【三年前】
お昼過ぎ、遅い昼食に自宅に帰ったらテレビで国会中継がーー
「おっ、佐々木さやかちゃん!」
妻「そのちゃん付けはやめ!」?
「別にいいじゃない、東北に一緒に行ったんだから、創価の三大美女!」
「それが何!」
「……奥さんは地区の三大美女よ!」
「上手になったねえ!」
(俺もうまく言ったもんだ……)
???
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
開目抄 0186〜0237
第三章 仏教の初門となすを明かす 0186.12〜0187.07
現代語訳
これらの儒教で賢聖と仰がれる人々は、聖人と呼ばれていても、生命の実体を知らないのである。ゆえに過去世を知らないことは、凡夫が背を見ないのと同じであり、生命に未来があることを知らないのは、盲人が前を見ないようである。ただ現世において、家を治め、孝行をいたし、堅く仁義等の五常を行ずるならば、傍輩もその人を敬い、名声も国内にひろまり、賢王もこれを召し出して、あるいは臣となし、あるいは師とたのみ、あるいは王位をゆずり、諸天善神もきたって守り仕えたのである。いわゆる周の武王には五人の老臣が来て仕え、後漢の光武帝には二十八宿が来て二十八将となったのがこの例である。
そのように、儒教の徳は高くても、生命の三世にわたることを知らないから、尊敬する父母・主君・師匠が死んだならば、その来世の幸福を授けることもできないから、結局は不知恩の者であり、真の賢人・聖人ではないのである。孔子が「この中国には賢人・聖人がおらない。西の方に仏図という者があり、これは真の聖人である」といって、外典の教えはすなわち仏教に入るための段階であるとなしたのは、この意味である。すなわち儒教においては礼楽等を教えて、後に仏教が伝来した時に、戒定慧を知りやすからしめんがため、王と臣の区別を立て、尊卑を定めて、もって主の徳をあらわし、父母を尊ぶことを教えて、もって親の徳をあらわし、師匠と弟子を明らかにして、もって師に帰依すべきことを知らしめたのである。
妙楽大師いわく「仏教の流布はじつに儒教の力をそのまま生かしたのである。儒教の礼楽が先に流布されて真の道たる仏法が後に弘通されたのである」と。天台大師のいわく「金光明経に、一切世間のあらゆる善論はみな仏経によっているのである。もし深く世法を識るならば、すなわちこれは仏法であると説いている」と。天台の止観にいわく「釈迦は三人の聖人を遣わして中国の衆生を教化した」と。妙楽の弘決にいわく「清浄法行経にいわく、月光菩薩は中国に生まれて顔回と称し、光浄菩薩は同じく孔子と称し、迦葉菩薩は同じく老子と称した。これらはすべて釈尊の使いとして、仏教の先駆として儒教を説いたものである」と。