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2020.2.26-2

2020年02月26日 (水) 00:39
2020.2.26-

◎寸鉄
妙法の生活とは変毒為薬
―牧口先生。題目の師子
吼で智慧発揮し一歩前進
     ◇
賢者とは人生の使命を知
る者の謂―文豪。広布に
生きる日々こそ最高の宝

◎名字の言 会合と個人指導の比率はどう変わる?

そもそも一人一人の本当の「悩み」は、懇談の中でしか出てこないもの。大勢で集まった時の元気な様子しか知らずにいたことに、反省することも少なくない。やはり時間を取って、話を聞いてみなければ分からない

「一対一の『草の根の語らい』――それは まことに地味である。しかし『人と人のつながり』をつくっている」

「一人ひとりの思いを包み込み、同苦しながら、きめ細かに激励していくことである。これを私は、ただひたすら実行してきた。そして勝った」

会合と個人指導の比率が「2対8」となるよう心掛ければ、着実に人材が育ち、自身も大きく成長していく。今は、さらに踏み込んで「0対10」で訪問・激励に取り組める好機。相手の状況に配慮しつつ、希望あふれる声掛けをいや増して進めていこう。



◎陸軍の皇道派の青年将校が、対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃した。内大臣・大蔵大臣等が殺害され、永田町一帯が占拠された。

当初、陸軍の首脳部は青年将校たちの行動を容認する態度をとっていたが、海軍が鎮圧を要求し、天皇も同様の立場をとったので、29日に鎮圧を開始した。飛行機から「下士官兵ニ告グ」のビラを撒いて帰順を勧め、「今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ」との投降を呼びかけるラジオ放送を行った。形勢が不利になったと判断した将校たちは兵を原隊に帰し、2名が自決、残りの者が自首して、その日のうちに鎮定された。

◎1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの復位(百日天下)は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。

ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。

◎ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo[4]、1802年2月26日 - 1885年5月22日)はフランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。


◎レ・ミゼラブル全5巻/ユゴー

第一巻 ミリエル司教
1815年10月のある日、76歳のディーニュのミリエル司教の司教館を、 46歳のひとりの男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年 も服役。行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与 えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、2本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は 司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少 年プティ・ジェルヴェの持っていた銀貨40スー を結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、正直な人間として生きていくことを誓う。

第二巻 コゼット
「なんていう名前?」
「コゼット」
「嬢ちゃん! うちはどこ?」
「モンフェルメイユよ、おじさん知ってる?」

「いったい誰が、こんな時間に、森の中まで、君を水くみにやるんだね?」
「テナルディエのおかみさん」

「わたしのご主人よ、宿屋をやってるの」
「宿屋?、じゃ、おじさんは、今夜そこで泊ろう。連れてってくれるね」
「行きましょう」

☆今読んでも涙が出てくるくらい………


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