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2020.1.23

2020年01月22日 (水) 00:45
2020.1.23

1月23日(木)

八甲田山の日
1902年のこの日、八甲田山へ雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難した。

☆昨年2.22日本映画専門チャンネル「八甲田山」で見た。
撮影も壮絶を極めたに違いない??

1337年(建武3年/延元元年12月21日) - 後醍醐天皇が花山院を脱出し吉野・金峰山へ入山。一般に南北朝対立の始まりとされる。

1793年 - 第2次ポーランド分割。


◎朝、支部長へ
おはようございます。
連日の確定申告の疲れをほぐすのに、21日21:15にもみほぐしの先に予約をしていて、やっぱり疲れが残っていますので、今晩21時になったらマッサージに行きます??

◎今日の筑後地区研修会は欠席します。この時期の研修会、しかも一日研修は不適切ですね。そっどこじゃなか???

◎還暦の友のために
赤ちゃんちゃんこセットをアマゾンで注文?

◎急遽ボディ60分+首20分
「今日は背中が鉄板のようでした」

妻「そげ〜んデリケートやったかね」
「デリケートよ?」

◎トワ・エ・モワ………あのときのまま
14曲ダウンロード??
FOLK SONGS
14曲 | 56:23 | 133.8 MB  2019/01/09 配信
AAC 128/320kbps

◎寸鉄
日蓮仏法は「百発百中の
生活法則」―先師。大確信
の祈りで“諦め”の壁破れ
     ◇
幹部は速度が勝負。悩め
る同志に励ましを!陰の
友に感謝を!電光石火で
     ◇
幸福は一人では味わえな
い―作家。最高の宝友と
歩む触発と歓喜の無上道
     ◇
火災に注意。タコ足配線、
コンセントの埃、建物周
囲の可燃物―指差し確認

◎名字の言 人生の意味を求めることとは――精神科医フランクルの洞察
ナチスのユダヤ人強制収容所から生還した精神科医V・E・フランクルは「生きがい」について思索した。

「意味を求めること」こそ「人間の生命の根源的な力」

「この意味は各人にとって唯一かつ独自なものであり、まさにその人によって充たされねばならず、またその人だけが充たすことのできるもの」

「君がこれまで悩み苦しんできたことは、君にしか救えない人を励ます力になる」

▼法華経には地涌の菩薩が六万恒河沙の眷属と共に出現する姿が説かれる。一恒河沙はガンジス川の砂粒の数。眷属とは共に生きる仲間であり、仏の教えに連なる人々の意味だ。一人の地涌の菩薩には、数え切れない人々に希望を送り、仏法に導く力が備わっている

▼妙法を語り弘めることこそ「今生人界の思出」(御書467ページ)。この世界のどこかに自分を待っている人が必ずいる。かけがえのない“私の使命”を果たしていこう。(之)



◎冬の八甲田山は本来は冬の重装備が必要だったが、指導部の無謀さから兵士は軽装のまま行軍を開始したため、猛吹雪の中で道を失い寒さと飢えと疲労の為に遭難して行った。25日になって199名の死亡が確認された。



◎ポーランド分割(ポーランドぶんかつ、ポーランド語: Rozbiór Polski・Rozbiory Polski、リトアニア語: Lietuvos-Lenkijos padalijimai、ベラルーシ語: Падзелы Рэчы Паспалітай、ウクライナ語: Поділи Речі Посполитої)は、18世紀に、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語。その後、ウィーン会議により改めて4度目の分割も行われた。


◎九州専門部総会(13:30九州文化)
M社長・K社長と私、3人で行くのは4年目。今年は私の車で。ところが生憎急遽お一人が風邪。二人で参加しました。
「一騎当千のリーダーの集い」
「師子吼の題目」
「法華経の将軍学」

帰り、吉野ヶ里歴史公園に立ち寄って来ました。筑後平野から佐賀平野は昔はほとんど沼地だった。邪馬台国はやっぱり九州説が自然。

【二年前】
◎焼き鳥
娘「お父さん、焼き鳥のお土産、いつもありがとね。私、皮、肝、砂ずりが大好き。お母さんは豚バラが大好きよ」
「そうね」

「お母さんは豚バラが好きだってね?」
「そうね」
「お腹が豚バラやけんね」
「よー言うねあなたは…自分はどげんかい!!!」
???


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

開目抄 0186〜0237

 12日夜半、多くの武士たちが厳重に警戒するなかを大聖人は若宮小路を通り鎌倉を出て、由比の浜から腰越の竜の口へと向かわれた。この間、八幡宮の前では馬をおりられ、大音声をもって法華経の行者を守護せぬかと、八幡を叱咤されている。また、由比の浜から竜の口の刑場まで、大聖人の馬の口にとりすがって、お供したのは、本抄の対告衆となった四条金吾であった。

 頸の座にのぞまれたときのようすは、次の種種御振舞御書の御文を拝しよう。

「此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(0913-17)と。

 まことに、御本仏なればこその不思議であり、諸天の加護に頸切り役人どもの恐れおののく姿が目に映るようではないか。


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