◎寸鉄
「鏡に向って礼拝を成す
時浮べる影又我を礼拝」
御書。真心は必ず伝わる
◇
広布へ個々人が力を発揮
すれば団結も深く―恩師
副役職が光る組織は無敵
◎名字の言 親はわが子の“自ら育つ力”を信じて愛情を注ごう
「わが子が言うことを聞かず、思うような子育てにならない」
「『子育て』というよりも『子育ち』と捉えましょう」
「花と同じです。水をやって、太陽の光を当てて、たまに周りの雑草を抜いてあげればいい。大人の思うようにコントロールしようとすると、かえって花はきれいに咲かないものです」
▼こうあってほしい、こうなってほしい、こうだったらいいのに……と思ってしまうのが親心。だが子は親の分身ではない。子には子の思いがあり、個性があり、人生がある
▼仏法が説く「桜梅桃李」とは、その人が最もその人らしく使命の花を咲かせられるよう、個々の生き方を尊重する哲理だ。子育てに限らず、人材育成もこの視点から問い直すことで道が開けていく
▼御書に「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」
◎鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれる。
概要
1185年(文治元年)、源頼朝が天野遠景をこの職に任じて、九州の御家人の指揮統制にあたらせたのが始まりである。平家の残党及び源義経一党らの追捕がもともとの任務であったが、その後全九州の御家人の統轄にあたるようになり、大宰府の機能も継承した。
頼朝は、1180年(治承4年)に鎌倉に侍所を置き御家人を統制し、さらに1185年には、義経の追捕を理由に、各国へ守護・地頭を設置し、全国の支配権を確立した。そして地方には、京都守護を、九州には鎮西奉行を、奥州には奥州総奉行をそれぞれ設置して統制させた。
遠景の後について、中原親能・武藤資頼が継いだとする説もあるが、瀬野精一郎は、遠景後の後継者について諸説あることをまとめた上で、「鎮西奉行は一般的呼称にすぎず、鎌倉幕府の正式な官職名ではなかったとする説(佐藤進一説)もあるごとく、その性格がなお不明瞭な点が多いことに起因しているといえる」[1]と指摘している。
元寇の後、鎮西奉行に代わり新たに鎮西探題が設置された。
◎ルイ16世(フランス語: Louis XVI、1754年8月23日 - 1793年1月21日)は、ブルボン朝第5代のフランス国王(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)。ナバラ国王としてはルイス5世(バスク語: Luis V.a)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。
在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止し、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」となる。
【一年前】
◎ラフィネ大牟田店から香椎浜店
(車で1時間15分の距離) に移動した、
“ととねえちゃん”こと『高畑充希』を
追っかけ??
もう6年以上も揉んで貰っている。28歳。
帰り際
「実は劇団四季に入っててそれでこちらに移ったんです」
「あ、そう。ならいい出会いでまた心配せんなんね」
??
妻に言ったら
妻「目ばピーチクパーチクせんでよか」
?
【二年前】
◎朝食時の夫婦の会話
私「朝ドラの“てん”に、奥さんの笑顔は似てるよ」
妻「私の笑顔はいろんなことを乗り越えてできた笑顔?
誰かさんの………」
「俺のお陰?」
「お陰とちゃう?私の信心よ」
?
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
開目抄 0186〜0237
文永8年(1271)9月10日、幕府の軍事、警察権をにぎっていた平左衛門尉頼綱は、日ごろ大聖人をもっとも憎んでいたが、執権職代理として大聖人を幕府の奉行所に呼びだし、前執権であった北条時頼と同重時を無間地獄におちたといいふらしているとの嫌疑で、取り調べを行なった。日蓮大聖人は平左衛門に向かって、厳然と諌められ、迫りくる国難にあたって覚醒を求められたが、平左衛門はもの狂いのように聞こうとすらしなかったのである。
翌々日の九月十二日、再度の反省を求めておしたためあそばされた御書状が「一昨日御書」である。
「抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回して須く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり」(0183-14)との熱誠あふれる諫言も、ゆがみきった平左衛門には、怒りを爆発させる口火でしかなかった。
平左衛門みずから大将となり、大聖人お一人を捕えるのに、数百人の武士を引きつれて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せたありさまは、まさに狂った姿としかいいようがなかった。平左衛門の郎徒の少輔房というものは走りよって、法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえ、そのほかの家来どもは、その他の法華経をまきちらし、足でふんづけ身にまとった。大聖人は「あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」と大声で呼ばわれ、かえって捕えにいった兵士どもが、顔色を失ってしまったのであった。