Contents
RSS 2.0

ブログ blog page

2020.1.12-2

2020年01月12日 (日) 01:41
2020.1.12-

◎75歳を越えても働きたい人16%??
――私は75歳までかなと思っていましたが考え直さねば??
うちでも80歳を超えた事業者が何人かいらっしゃる。
最高齢は91歳の現役社長??
数字と法律に強くまだまだ元気かくしゃく?
事務所まで自転車で来られる??♀?
             
                
☆この日本、勘違いしている人々がいかに多いことか?
でも、理解者は確実に増えている??
元品の無明?
難信難解
日本・一同に日蓮をあだみて
広宣流布は難事中の難事
第六天の魔王の所領なり?

忍辱の鎧(にんにくのよろい)
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
「前進・人材の年」
「勇気」「感謝」「誠実」
「前進? 平和を開く十年へ」

☆うちの地区の名前は「前進地区」??
?
             
             
◎征韓論、明治六年政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて結成[4]。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとなる。

日本で初めて「愛国」を名称に冠した組織・団体・結社として知られる。


【一年前】
◎今日から“夫婦別室”
熱は下がったけど、時々咳はするし、菌が体の中に残っている感じ。薬も無くなったし、明日また病院に行ってみようと思います。

妻は依然としてギブス&インフルエンザで寝込んでいます。

夕方、同じ地区の白ゆり長さんにイオンでばったり会い、妻のことを言ったら「えっ??全然知らんやった」

今日から布団を一階10畳間に移し、ミー(猫)と一緒に寝ようと思いますが、ミーはびっくりした感じ。
「早く寝てよ〜、眩しいよう」
ていう表情。
ミーは賢くこたつの中へ。
?

【二年前】
◎うなぎがない?
社長は電話かけまくり。今年7月の丑の日はうなぎがないかも。柳川のどこのうなぎ屋も少しずつ出しているとの事。
?


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

第四章 死身弘法の心情をのべる 0185.11〜0185終り

現代語訳

 日蓮は以前から、ほぼその理由を考えていたので、身命を捨ててそのことを説き、国恩を報いようとしてきたのである。しかし、愚人の習いで、遠い者を尊び近い人を蔑るであろうか、日蓮の言うことは用いられず、空しい年月を送ってきたのである。

 今、幸いに強仁上人が御勘状をもって日蓮を諭そうとされている。そうであるならば、この機会に、天皇のお耳を煩わせて、公場で法の勝劣を決しようではないか。また御勘文をみるに、全く間違った考えに基づいている。もし上人が黙止して空しく一生を過ごすならば、定めて師檀ともに地獄の大苦を招くだろう。

 今生の大慢のために、永劫の迷いの因を植えることがあってはならない。はやく天皇に言上し、速やかに対面して、その邪見を翻えさせるがよい。書面では言葉を尽くせず、言葉は心を尽くさない。委細は公場対決の場を期したい。恐恐謹言

       十二月廿六日                         日蓮花押


トラックバック

トラックバックURI:

コメント

名前: 

ホームページ:

コメント:

画像認証: