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2020.1.10-2

2020年01月10日 (金) 00:17
2020.1.10-

◎明太子は助宗鱈(介党鱈)の卵(鱈子)の塩辛で、元々は朝鮮半島に伝わる家庭の惣菜だった。これを日本人の口に合うように味附けして、からし明太子が作り上げられた。

◎ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日[1])は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。

◎ローマ内戦(ラテン語: Bellum civile alterum) では、紀元前49年から紀元前45年の間に起きた共和政ローマ期の内戦について記す。グナエウス・ポンペイウス及び元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル派の間で起こった一連の戦争で、カエサルが当時の国家に対して仕掛けたものである。

◎ルビコン川(ルビコンがわ、ラテン語: Rubico ルビコー)は、共和政ローマ末期にイタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界になっていた川。アリミヌム(現在のリミニ)の北、ラウェンナ(ラヴェンナ)との間でアドリア海に注いでいた。ローマ内戦開戦時のユリウス・カエサルの故事にちなむ「ルビコン川を渡る」という成語は、その時のカエサルの「賽は投げられた」という言葉とともに知られている。

◎元老院(げんろういん、ラテン語: senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。

☆一般にルビコン川の名前は、紀元前49年1月10日、ローマ内戦においてユリウス・カエサルが元老院の命令に背き、軍を率いてこの川を渡った故事によって知られる。この際に「賽は投げられた」(alea iacta est, アーレア・ヤクタ・エスト)と部隊に檄を飛ばしたことはあまりにも有名である。「ルビコン川を渡る」(英: cross the Rubicon)という言葉は、その後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断・行動の表現として使われている。

◎国際連盟(こくさいれんめい、旧字体:國際聯盟、 英語: League of Nations, フランス語: Société des Nations, スペイン語: Sociedad de Naciones、略称:LN,LoN/SDN,SdN)は、第一次世界大戦後の1919年の協商国と、ドイツとのヴェルサイユ条約、および中央同盟国との諸講和条約により規定され、ヴェルサイユ条約の発効日である1920年1月10日に正式に発足した国際機関である。

◎ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、仏: Traité de Versailles)は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称。

◎ハッピーマンデー制度(ハッピーマンデーせいど)とは、日本において国民の祝日の一部を、従来の固定日から特定週の月曜日に移動させた法改正である。

概説 編集
公務員や中規模以上の企業を中心に週休2日制が浸透したため、月曜日を国民の祝日とする事によって土曜日・日曜日と合わせた3連休とし、余暇を過ごしてもらおうという趣旨で制定された。

「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」(平成10年法律第141号)によって「成人の日」および「体育の日」が、「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」(平成13年法律第59号)によって「海の日」および「敬老の日」が、それぞれ月曜日に移動した。

なお、移動方法については「従来の日付に近い方の月曜日」のような追従型でなく、「○月の第○月曜日」のように固定型となっている。これらの祝日設定は、アメリカ合衆国にある同様の制度(月曜休日統一法)の設定にならったものである。


【一年前】
◎税務調査
赤字の工事から………
現場監督へのリベート二百数十万円
重加算税対象。
私、調査員に
「お見事?よく見つけましたね」??
「うちで重加が出たのは久しぶりですね。重加が出た所はことごとく離れていきましたので、それも合わせて今後を考えてください」

【二年前】
「気に入らなんだことは四つある。その第一はわずかな間にすっかり戦が下手(へた)になったこと………関ヶ原から十五年、これは大きな驚きであったぞ」
「やはり、泰平の続いたための油断………」

「戦が下手になれば弱くなる。弱くなると自信をなくし、自信がないと戦の手口は残酷になってくる。武器が進んでいるのに、戦う人間が、臆病で残酷になったのでは眼もあてられぬ。………その第二は、徳と法の考え方の錯倒(さくとう)であったぞ」
「徳と法………でござりまするか」
「そうじゃ、将軍家はじめ家老どもの考え方はあべこべになっている。法治のかなめは、徳が先か法度(はっと)が先か? その方なども逆さま組ではないか勝重。どうじゃ。これが逆になってくると、やたらに威信をいい立てる」
そういうと、家康の視線は意地わるく勝重の上に停まった。
勝重は狼狽した。

「第三番目の不満は、これは家康自身への怒りであったわ」

「わしは思いあがっていたのだ。慢心じゃ。この家康ほどの者がよくよく考えてしたことゆえ、もはや大丈夫………と思っていた。その怠慢、その甘さ、これはどのように叱りつけても叱りたりないほどの油断であったわ………」

【徳川家康26巻】

【三年前】
◎北九州市議選交流
今日は奥さんと小倉北区の税理士6軒を回り、2人に会うことができました。
「いつも年賀状ありがとうございます!」
「わざわざ遠くから」
「私今年で還暦になります」
「親子の差やね」
とても喜んで貰いました。



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第三章 亡国の元凶・真言を破す 0185.02〜0185.10

なお、「国主聖主に非れば謂れ之を知らず」は、御真筆では「国主世の禍に非ざば謂れ之を知らず」となっている。「世の禍に非ざれば」といわれているのは、この災難が世間の因によって起こったものでなく、謗法という仏法の因によって起こったものであるゆえに、仏法を弁えない「国主」はその因を知ることができない、との意である。また「諸臣儒家に非れば事之を勘えず」と仰せられているのは「儒家」とは、国のこと、天下のことを憂えるのがその特質であるとの視点から、このように言われたと考えられる。
 そして、日本の王臣は、ただ災難の原因を知らないだけでなく、これらを消そうとして、真言師や持斎を供養して加持祈祷を行わせているゆえに、かえって「火に薪を加え氷に水を増す」ように、逆に災いを増大させている、と仰せられている。ここで「持斎」とは斉戒を持つ僧で、普通は律宗の僧をいうが、当時、鎌倉幕府に取り入って最も権勢を振るっていた良観が真言律宗の僧であることから、代表として「持斎等」と言われたと考えられる。
 「大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす」と仰せられているのは、この書状が建治元年(1275)12月の御執筆とすると、ほぼ1年前の文永11年(1274)10月から11月にかけての時期、文永の役があったばかりである。
 しかし、明けて建治元年(1275)の春には、蒙古からの再度襲うとの国書がきていたから、大聖人のお言葉は厳しい警告と受け止められたであろう。


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