◎寸鉄
“長の一念”が戦いの勢い
決める。法華経は最高の
将軍学。率先の大前進を
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家で冷え感じる人、8割。
寒暖差で血圧変動の危険
あり。屋内でも防寒対策
◎名字の言 青山学院大・原監督の“発想の転換”
令和初の第96回箱根駅伝は、創価大・米満選手の歴代2位の区間賞で幕を開け、7区間で区間新が続出する超高速レースとなった
▼創価大と東京国際大が初めてシード権を獲得。常連校の監督たちは「今までのやり方では通用しない」と口をそろえた。100周年の節目を迎えた箱根駅伝は、新時代に突入したといえる
▼その中で、青山学院大が2年ぶりに王座を奪還した。解説者の渡辺康幸氏は、その勝因を、原監督の区間配置が「他の監督と逆の発想だった」と指摘する。通常は「どの区間にどの選手を当てはめるか」考える。だが、原監督は選手の努力をよく観察した上で「どこの区間なら輝けるか」と考えていた、と(「スポーツ報知」)。「花の2区」に1年生、復路に箱根初出場の4人を抜擢するなど、まさに“発想の転換の勝利”だった
▼駅伝に限らず、社会の変化のスピードは激しい。“今までのやり方”にこだわるばかりでは、時代に取り残されてしまう。発想を転換して大胆に攻め続けることが、時代に先駆する鍵だろう
▼池田先生は「大事なのは人だ。祈って、適材適所で皆を生かすのだ。新しい人が躍り出てこそ、新しい波を起こす力となる」と。我らも“皆が人材”を合言
◎大友皇子即位説(おおとものみこそくいせつ)は、江戸時代から唱えられた学説で、日本史学で長く続く論争点である。
671年、天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、翌672年の壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗れて亡くなった。この間に大友皇子が即位式を行って即位し天皇になったのか、それとも行わないうちに亡くなったのかが争点である。大友皇子が実際に天皇としての行為を行っていたことに異議を唱える者は少ない。
大友皇子は明治に入った明治3年(1870年)に諡号を贈られて弘文天皇と呼ばれたため、弘文天皇即位説(こうぶんてんのうそくいせつ)とも呼ばれる。
◎天智天皇(てんぢてんのう、てんじてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。
一般に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。
◎弘文天皇(こうぶんてんのう、648年〈大化4年〉- 672年8月21日〈天武天皇元年7月23日〉)は、日本の第39代天皇(在位:672年1月9日〈天智天皇10年12月5日〉- 672年8月21日〈天武天皇元年7月23日〉)。
◎漢城条約(かんじょうじょうやく)とは、1885年(明治18年)1月9日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。「漢城」は朝鮮の首都で現在のソウル特別市。甲申政変後の日朝間の講和を目的に締結された。日本側全権大使は井上馨、朝鮮側全権大臣は金弘集であった。
◎血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)とは、1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月22日。以下、日付はすべてユリウス暦による。)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。ロシア第一革命のきっかけとなった。
◎2007年1月9日に開催されたアップル製品の展示会のひとつ、Macworld Expo 2007にて発表され、同年6月29日にアメリカ合衆国にて発売された。クワッドバンドGSM端末のため、日本など通信方式にGSMを採用していない国・地域では使用できず、該当国・地域では販売もされていない。