◎名字の言 “しょっぱい”体験が自分の身になる
2組の若い母娘が一緒に料理をした。途中、砂糖を加えるべきところで一方の少女が塩を入れてしまった。それをまねて、もう一方の少女も塩を手にした時、母親が「あっ、本当はね」と制した。さて、しょっぱくしてしまったほうの親子。一緒に味見をした後、母親が半泣きの娘に言った。「おっ、本当だね」
▼2人の母の言葉はわずかな違いだ。だが、料理の経験が忘れ難いものとして残るのは、後者の親子だろう。多少の失敗や遠回りはあっても、体験を通して“身で読んだ”ことが自分のものになる。人生も同じではないか
▼「年頭に始めた小説『新・人間革命』の全巻読了を先日達成しました。決意も新たに、また第1巻から先生と共に生きています」と語る壮年部員。彼は青年時代に友人から同書を薦められて読み、主人公・山本伸一の生き方に感銘した。“これまでの自身の空虚な生活と決別し、未来を変えたい”と入会した
▼以来、彼は物語と自分を重ねるかのように同書を熟読し、実生活での試練を信心根本に乗り越えてきた。彼にとって「読む」とは、学んだことを行動に移す「わが人間革命の挑戦」と同義だった
▼小説に刻まれた池田先生の実践に学び、自らも立ち上がる。そんな「師と共に歩む」人生を送れる人は幸福である。(城)
◎実際には5日前の14日に飛行に成功していたが、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤って離陸」と報告された。
徳川好敏工兵大尉が代々木錬兵場でアンリ・ファルマン機を操縦し、日本初の動力飛行に成功。
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。 清水徳川家第8代当主にあたり、陸軍で航空分野を主導した。軍人としての最終階級は陸軍中将。華族としての爵位は男爵。1910年(明治43年)12月19日午前、軍公式の飛行試験で日本国内で初めて飛行機により空を飛んだ。
◎ヘンリー2世(英語: Henry II, 1133年3月5日 - 1189年7月6日)は、プランタジネット朝(あるいはアンジュー朝)初代のイングランド王国の国王(在位:1154年 - 1189年)である。
父はフランス王国の有力貴族のアンジュー伯ジョフロワ4世、母は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后で、皇帝ハインリヒの死後イングランドにもどり、その後、フランスに渡ってジョフロワ4世と再婚したマティルダである。外祖父(母マティルダの父)はイングランド王のヘンリー1世であった。母マティルダはヘンリー1世死後、1141年内の数か月という短期間ながらイギリス初(スコットランドを含めて)の女性君主となった人物である。
ヘンリー2世は頑丈な体躯をもち、猪首であった。また、「大食ではなく造化の間違い」でできたといわれるほどの巨腹であったが、波乱の生涯を送り、精力的に活動した[1]。父方と母方からの相続と自身の婚姻により広大な所領を獲得し、ピレネー山脈から南フランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「アンジュー帝国」を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ。
◎香港主権移交(ほんこんしゅけんいこう)/香港返還(ホンコンへんかん)とは、1997年7月1日に、香港の主権がイギリスから中華人民共和国へ返還、再譲渡された出来事である。
二国間交渉
1979年、香港総督として初めて北京を訪問したクロフォード・マレー・マクレホースは、中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案した。しかし、中華人民共和国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続けた。
1982年9月には首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。サッチャーは同年6月にフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利して自信を深めていたが、鄧小平は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬し[1]、「港人治港」の要求で妥協せず、イギリスが交渉で応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。当初イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還も求める猛烈な鄧小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった。
1984年12月19日に、両国が署名した中英連合声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。共産党政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表は、中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国の支配を受けることを良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。
【一年前】
●お昼
「あら?財布がない」
(あれ〜?………なら朝家を出るときから財布を忘れていたかな。このスーパーはSuicaは使えなかったな)
買い物カゴに入れていた弁当などを元に戻し家に帰ったら………
こたつの横に転がっていました。
妻「いよいよばい?? 危なか?」
【二年前】
●右派ポピュリズムの台頭
1930年代のドイツに酷似。
自己中心的で他党と連携せず………
“にもかかわらず”の精神力
(聖教17日p.12)
『戦う文豪とナチス・ドイツ』
アマゾンで注文?
【三年前】
●明日は北九州交流へ!
片道2時間半以上。
5軒程回る予定です。?
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強仁状御返事 0184〜0185
第一章 勘状に対し公場対決を促す 0184.01〜0184.05
本文
強仁状御返事 建治元年十二月 五十四歳御作 与真言僧強仁
強仁上人・十月二十五日の御勘状・同十二月二十六日に到来す、此の事余も年来欝訴する所なり忽に返状を書いて自他の疑冰を釈かんと欲す、但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底の長松・匠を知らざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり、貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下し是非を糾明せば上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか、其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり世・出世の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり、