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2019.11.30-2

2019年11月30日 (土) 01:45
2019.11.30

【一年前】
●朝ドラ「まんぷく」
私「昔は俺もワンマンで人の意見を聞かなかったな」
妻「昔?!」
………
妻「2回もストライキ起こされて5人全員一斉に辞めらしたもんね、あん時はひどかった………今は少〜しは人の意見を聞くようになったね………ほんの少〜し」
「ほんの少〜しね」
「うん、ほんの少し」
?

【二年前】
●徳川家康24巻
《大阪冬の陣が終わって74歳の正月明け》
二条城→矢橋→水口(みなぐち)→亀山→桑名→名古屋城→岡崎

(これが最後の旅になろう………) 

(どうやらこれで、わしも大手を振って母者(ははじゃ)の前へ出てゆけそうじゃ)

信長としめしあわせて初めて上洛したおりのことが昨日のように想い出されて来るのである。あのおりには、四方はうっかり笑顔を見せられぬ危険きわまる暴民暴徒の世界であったが………

(みな泰平を喜んでいるのだ………)

岡崎での感慨もまたひとしおであった。ここには父の面影ばかりか、祖母、母、叔母と限りない追憶の糸がからみあって残っているのに、家康が、ここで苦心を重ねたころの肉親や重臣たちは、今では一人も生き残ってはいないのだ………
(時というものは、不思議なものよ)

(わが身の生まれた土地が死ぬ土地ではない………)
?

?噛み締めてゆっくりと読んでいます??

●急にエンスト?
地区広布会議に間に合うように帰って来ていたら、ジャガーが何の前触れもなく急にエンスト?有明海沿岸道路の大牟田北インターを出たところで。運よく左側に停められたから良かった。井形石油の前田さんに急遽来て貰い、損保会社のロードサービスで工場行き。しばらく代車。今度は本当に買い替えになるかも?

妻「事故に遭わんで良かったたい、守られたたい」

☆ジャガーはそのまま廃車??


◎千島艦事件(ちしまかんじけん)とは、1892年11月30日に日本海軍の水雷砲艦千島がイギリス商船と衝突、沈没した事件。日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件であり、領事裁判権の撤廃問題と絡んで日本の国内外を巻き込む政治問題に発展した。

◎冬戦争(ふゆせんそう、芬:talvisota)
第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した戦争である。フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。

『フィンランディア』が作曲された1899年当時、フィンランド大公国は帝政ロシアの圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていた。シベリウスが作曲した当初の曲名は「フィンランドは目覚める」 (Suomi herää) で、新聞社主催の歴史劇の伴奏音楽を8曲からなる管弦楽組曲とし、その最終曲を改稿して独立させたものであった。フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして、帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのは有名な話である。初演は1900年7月2日、ヘルシンキで行われた。


◎ルーシー (Lucy)
エチオピア北東部ハダール村付近で1974年11月24日に発見された318万年前の化石人骨。アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の中で最初期に発見されたもののひとつであり、全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったという資料上の貴重さから、広く知られている。

標本番号 AL 288-1
通称 ルーシー
種 アウストラロピテクス・アファレンシス
年代 318万年前
発見場所 エチオピア・アファール盆地
発見日 1974年11月24日
発見者 ドナルド・ジョハンソンとトム・グレイ

モーリス・タイーブ (タイエブ、Maurice Taieb) を中心とする国際アファール調査隊 (the International Afar Research Expedition ; IARE) が発見しビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」に因み「ルーシー」と命名。

◎アウストラロピテクス (Australopithecus)
哺乳類霊長目(サル目)ヒト科の絶滅した属であり、化石人類の一群である。

アフリカで生まれた初期の人類であり、約400万年前 - 約200万年前に生存していたとされる、いわゆる華奢型の猿人である。頑丈型の猿人(200 - 120万年前)は、以前はアウストラロピテクスに含めていたが、最近ではパラントロプスに分類することが多い。



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一昨日御書 0183〜0184

第一章 立正安国の予言の的中を挙げる 0183.01〜0183.08
「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば一向に法華経になるべし」(1157-17)。


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