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2019.11.23-2

2019年11月23日 (土) 01:27
2019.11.23

◎勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日。

◎松前 高広(まつまえ たかひろ)
江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)4代藩主。
江戸時代前期
生誕 寛永20年(1643年)
死没 寛文5年7月5日(1665年8月15日)

寛永20年(1643年)、3代藩主・松前氏広の長男として蝦夷福山館にて誕生。慶安元年(1648年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし僅か6歳のため、藩政は高祖父の松前慶広の甥・蛎崎友広や蠣崎利広らによって執行された。承応2年(1653年)、湯の川温泉にて湯治を行う。

アイヌの集団であるメナシクルとシュムクルとの抗争が激化したため、承応4年/明暦元年(1655年)、仲介に入り講和させるが寛文年間には再び抗争が激化した。

寛文5年(1665年)7月5日に23歳で死去した。跡を長男・矩広が継いだ。

蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。

松前藩(まつまえはん)
渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。

松前 崇広(まつまえ たかひろ)
江戸時代後期の大名。蝦夷地松前藩12代藩主。のちに老中にもなった。官位は従四位下・侍従。名は正字では崇廣。
時代 江戸時代後期
生誕 文政12年11月15日(1829年12月10日)
死没 慶応2年4月25日(1866年6月9日)

☆厚田村
作詞:山本伸一
1.
北海凍る厚田村 吹雪果て無く 貧しくも
海辺に銀の家在りき これぞ はえある我が古城(こじょう)
2.
春夏 詩情の厚田川 鰊の波は日本海
松前藩主の拓きしか 断崖屏風と漁村庭
3.
少年動かず月明かり 伝記と歴史の書を読みて
紅顏可憐に 涙有り 正義の心の 鼓動楽(こどうらく)
4.
痛まし針の白髪(はくはつ)に 不正に勝てと 厚司(あつし)織る
母の祈りに鳳雛も 虹を求めて 天子舞(てんしまい)
5.
暖炉に語りし 父も又 網をつくろい笑顔じわ
権威の風に丈夫(ますらお)は ゆけと一言 父子の譜(うた)
6.
厚田のふるさと忘れじと 北風つつみて 美少年
無名の地より 世の為に 長途の旅や 馬上行(ばじょうこう)
(6番は繰り返し)


◎1948(昭和23)年公布・施行の「祝日法」で制定。
戦前の「新嘗祭」の日をそのまま「勤労感謝の日」に改めた。

新嘗祭
天皇が新穀を天神地祇に勧め、また、親しくこれを食する祭儀。現在は天皇の私的祭祀として行われるほか、伊勢神宮などでも行われ、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされる。

明治5年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていた。明治6年から太陽暦が導入されたが、そのままでは新嘗祭が翌年1月になることもあって都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととし、明治6年ではそれが11月23日だった。翌明治7年には前年と同じ11月23日に行われ、以降11月23日に固定して行われるようになった。1947(昭和22)年までは祭日として休日となっていた。

◎1995年8月25日に英語版が12か国で先行して発売され、日本語のベータ版もリリースされていたことから、日本でもある程度の情報が広まっていた。販売開始と前後して大量のテレビコマーシャルが流されていたこともあり、日本語版の発売された1995年11月23日(勤労感謝の日)の秋葉原などでは、11月23日になった瞬間に深夜販売を始める店が多く、業界関係者や報道陣を中心に一種のお祭り騒ぎの様相を呈した。この様子はテレビなどで報道され売り上げに貢献した。



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第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す 
0182.07〜0182終り 2019.11.14

 また、11世紀の永保年中に、叡山の僧徒が三井の園城寺を焼き払った事件と、平氏が東大寺を焼失させた事件を挙げられている。
 園城寺は三井寺ともいう。この寺と比叡山延暦寺はともに天台宗であるが、長年にわたって抗争を繰り返した。両者の対立抗争は天元4年(0981)、園城寺の余慶が天台宗の座主に任ぜられたことから、延暦寺の衆徒が反発して讒訴をしたのがはじめという。
 以来、延暦寺を山門、園城寺を寺門と称し、両者に争いが続いたが、特に永保元年(1081)には御願所15所、堂院90、塔婆4基、鐘楼6宇、経蔵20所、神社13所、僧坊800余宇、舎宅3000余が灰塵に帰すという抗争が起きたことである。
 もう一つの平氏の東大寺等の焼失事件は治承4年(1180)12月22日に起きたものである。これは、奈良仏教の大寺院が平氏に従わないのを怒った平清盛の命で、平重衡が軍兵を率いて奈良攻撃を行った際に、寺々に火を放った事件である。このため、東大寺・興福寺等の諸寺が焼かれ、多くの僧尼が殺されたという。


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