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2019.11.19-2

2019年11月19日 (火) 00:48
2019.11.19

◎原田会長のあいさつ(要旨)
――「創価学会 世界聖教会館」開館記念勤行会から

一、かつて池田先生は語られました。
 「(戸田)先生と私(池田先生)の二人きりのとき、先生は言われました。
 『大作が、もしか会長になったら、何カ国ぐらいの国に広宣流布できるか』と。
 当時の学会は、日本のことだけで精一杯でした。しかし、戸田先生は鋭く世界を展望しておられたのです。
 
 私は答えました。
 『必ず全世界に仏法を弘めます!』
 『それは何カ国だ』
 『100カ国以上に弘めていきます』
 先生は涙ぐんでいました。私が言えば、必ず実行することは分かっておられましたから。
 
 事業の失敗で苦境にあった師をお護りし、師の広布拡大の大願を成就させ、文化と教育の大構想も、すべて実現してきました。
 師匠が喜び、安心し、勝利する――そのためには、どんなことでも成し遂げる。そういう弟子であったのです。これが本当の師弟の関係です」と。

本日、広宣流布の新たな言論城に、池田先生が恩師に誓った世界広布の人材が集結しました。この言論会館での集いこそ、池田先生の師弟勝利の実像であります。
 
 だからこそ私どもは、最大の苦境の中で一切を変毒為薬し、恩師の大構想の一切を実現してこられた池田先生の闘争に続き、“師匠が喜び、安心し、勝利するために、どんなことでも成し遂げる”――この本当の師弟の闘魂を断固、受け継いでまいりたい。
 
 広宣流布の根幹は、どこまでも言論闘争です。世界を平和へ、幸福へと導く、正義の言論の大潮流を、きょうから新たな決意で、ともどもに巻き起こしてまいりたい。
 
 そして、池田先生に、喜び、安心していただける弟子の勝利を、これからの聖教紙上に、各国の機関紙・誌に、さらには万年の広布史に、厳然とつづりゆこうではありませんか(大拍手)。



【一年前】
◎「七大講(チーブジャン)」
「7つの教えてはならないこと」=「七大講(チーブジャン)」として中国共産党から禁止命令。
大学や高校で教えてはならない。
?西洋的価値観 
?報道の自由 
?市民社会 
?市民の権利 
?中共の失政 
?共産貴族の存在 
?司法の独立など

☆真逆の社会?

●21:00遅い夕飯
妻「あら、カレー自分でした、ごめんね」
私「いや、いいよ、ありがとう」
(新亭主関白宣言を実験中?)
「あれ、どげんした」
「いや、いつもありがとう」
「あれ、どげんした?
なんかあやしかね、
また裏でこそこそしよろ?」
「いや今日はこそこそしとらん」
「よー言うね」
(なかなかてきめん?)
?

【二年前】
●朝
「おはよう」
そして朝食していたら目の前に。
「おッ」
と思ったら………
横にずらして食事。
そして何も話さない。
ま、そんな頑固比べです。?

●夜も夫婦お互いに無言………?
外は雨………
明日は紅葉の九年庵?でなく、本幹同時中継に行こう?



◎クレルモン教会会議(クレルモンきょうかいかいぎ)
1095年11月にクレルモン(現クレルモン=フェラン)で開かれた教会会議で、教皇ウルバヌス2世が招集した。この教会会議は教皇ウルバヌス2世が行った十字軍宣言で有名である。クレルモン公会議とも訳されるが、現在は教会会議と訳されることが多い。クレルモン宗教会議ともいう。

十字軍宣言
ウルバヌス2世は会議の最後に、群集に向けて演説を行った。これは第1回十字軍およびその後約2世紀にわたってカトリック世界のすべての人を巻き込んだ十字軍運動の直接的契機となったことで非常に有名である。彼は東方のキリスト教国(主に東ローマ帝国)の苦難と異教徒に対する聖戦が必要であり、十字軍へ参加した者は罪が許されると訴えた。人々は熱狂し、"Dieu le veult!"(神の望みのままに!)と答えたという(この言葉は史料の不確かさから疑う研究者も多い)。

ウルバヌス2世(Urbanus II, 1042年 - 1099年7月29日)
11世紀のローマ教皇(在位:1088年 - 1099年)。本名ラゲリウスのオド(Odo Lageriae)またはウード・ド・シャティヨン(Eudes de Châtillon)。グレゴリウス7世によって引き立てられ、その遺志をついで教会改革を達成した。1095年のクレルモン教会会議において、第1回十字軍の派遣を呼びかけた人物としても知られる。

◎南北朝時代(なんぼくちょう じだい)
日本の歴史区分の一つ。1336年から1392年までの57年間を指す[1][2]。ただし、始期の日付から終期の日付までの期間は、56年弱である(後述)。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる[3]。始期はユリウス暦1337年1月23日(延元元年/建武3年12月21日)、 建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った時期であり[1][注釈 1]、終期はユリウス暦1392年11月19日(元中9年/明徳3年閏10月5日)、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一した時期である(明徳の和約)[1]。 始期を、建武の新政の始まりである1333年とする場合もある[2]。


◎ゲティスバーグ演説
(ゲティスバーグえんぜつ、英: Gettysburg Address)
1863年11月19日、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが行った演説。アメリカの歴史において、最も有名な演説の一つとされる。


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す 
0182.07〜0182終り 2019.11.14

弗沙弥多羅王
 紀元前2世紀ごろ、インドの王で、雑阿含経25によれば、阿育王の末裔で孔雀王朝最後の王とされ、経文な「王はその名徳を世に令こうして、軍神にこれを謀ったところ、賢善の臣は阿育王のように仏塔を建て、三宝を供養すべきことを勧めたが、王はこれを喜ばず、かえって悪臣の言をいれて、もろもろの仏塔を破壊し、多くの僧侶を迫害した」とある。バラモン教を復興して、多くの僧侶を殺し、阿育王の建てたインド仏教の中心寺院の鶏頭摩寺を破壊し、仏教を迫害した。乙午前御消息には「弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべわられにき」(1221-09)と仰せられている。


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