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2019.11.18

2019年11月16日 (土) 02:08



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第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す 
0182.07〜0182終り 2019.11.14

弗沙弥多羅王
 紀元前2世紀ごろ、インドの王で、雑阿含経25によれば、阿育王の末裔で孔雀王朝最後の王とされ、経文な「王はその名徳を世に令こうして、軍神にこれを謀ったところ、賢善の臣は阿育王のように仏塔を建て、三宝を供養すべきことを勧めたが、王はこれを喜ばず、かえって悪臣の言をいれて、もろもろの仏塔を破壊し、多くの僧侶を迫害した」とある。バラモン教を復興して、多くの僧侶を殺し、阿育王の建てたインド仏教の中心寺院の鶏頭摩寺を破壊し、仏教を迫害した。乙午前御消息には「弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべわられにき」(1221-09)と仰せられている。

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2019.11.19
第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す 
0182.07〜0182終り 2019.11.14

説賞迦王
 金耳国の王で、大唐西域記巻8によると、この王は外道を信じて仏法を憎み、僧伽藍を破壊して菩提樹を伐り、その根を掘り返して焼いたという。そして間もなく現罰を受けて死んだとある。
訖利多王
 北インド・カルヤラ国の王で、もともと末田底辺迦阿羅漢がカルヤラ国に500の伽藍を建てる時、異国から連れてきた奴隷であったが、後に自立した。健駄羅国の迦弐志迦王に服従したが、王の死後、再び自立して王位に就き、僧尼を追放し、仏法を破壊した。このためトカラ国の雪下王は、勇士500人とともに、重宝を訖利多王に献上するふりをして、隠し持っていた刀で王を殺した。雪山下王は仏法を再興し、堂塔を建て、僧尼を供養し、再び仏法はカルヤラ国に栄えた。
 報恩抄には「正法を行ずるものを国主あだみ 邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ、例せば訖利多王を雪山下王のせめ大族王を幻日王の失いしがごとし、訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし」(0313-09)と仰せである。

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2019.11.20
第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す 
0182.07〜0182終り 2019.11.14

中国における仏教破壊
 武宗皇帝は第15代皇帝で、即位後、しばらく念仏を重んじていたが、やがて仏教を憎んで同教を尊崇するようになり、会昌5年(0845)に大規模な仏教弾圧を断行して、多数の寺を破壊し、大量の僧尼を還俗させた。これは「会昌の廃仏」といわれている。武宗が仏教弾圧を行ったのは寺塔の建立と僧尼の免税が国家財政を疲弊させたこと、仏教教団内部の腐敗堕落などが原因であったといわれる。
日本における仏教破壊
 日本に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇の治世で、百済から仏像・経巻等が招来されたとされる。その仏教を信ずるか信じないかで、国内は崇仏派・廃物派、二派に分かれて争いを生じた。
 欽明・敏達・用明の三帝は蘇我氏が私的に信仰することを認めながらも、事あるごとに廃仏派の物部氏らの上奏を容れて、詔を発して「礼拝してはならない」とした。この詔を盾に、物部尾興や忠臣鎌子等は、仏道を倒し、これを焼却し難波の堀江に棄捨するなどしたのでる。
 更に3人の尼の法衣を奪い、笞打ちを加えたという。この「三尼」とは日本書紀巻20によると、敏建天王13年(0584)に高麗の帰化僧・恵便について出家した司馬建の娘・嶋・漢人夜菩の娘・錦織の娘・石の三人である。
 また、11世紀の永保年中に、叡山の僧徒が三井の園城寺を焼き払った事件と、平氏が東大寺を焼失させた事件を挙げられている。
 園城寺は三井寺ともいう。この寺と比叡山延暦寺はともに天台宗であるが、長年にわたって抗争を繰り返した。両者の対立抗争は天元4年(0981)、園城寺の余慶が天台宗の座主に任ぜられたことから、延暦寺の衆徒が反発して讒訴をしたのがはじめという。
 以来、延暦寺を山門、園城寺を寺門と称し、両者に争いが続いたが、特に永保元年(1081)には御願所15所、堂院90、塔婆4基、鐘楼6宇、経蔵20所、神社13所、僧坊800余宇、舎宅3000余が灰塵に帰すという抗争が起きたことである。
 もう一つの平氏の東大寺等の焼失事件は治承4年(1180)12月22日に起きたものである。これは、奈良仏教の大寺院が平氏に従わないのを怒った平清盛の命で、平重衡が軍兵を率いて奈良攻撃を行った際に、寺々に火を放った事件である。このため、東大寺・興福寺等の諸寺が焼かれ、多くの僧尼が殺されたという。
  以上のように仏教破壊の事例を挙げられたうえで、大聖人は、しかしながら仏記にとると、これらは仏法の怨敵ではない。仏法を滅失するのは、三明六通の羅漢のごとき僧侶らである、と述べられている。そしてその「仏記」として守護経と涅槃経が挙げられているのである。経題のみで具体的に文は示されていないので、いかなる内容であるかに触れておきたい。
 守護経巻10の阿闍世王受記品第10には訖哩枳王の二つの夢が説かれている。
 その一つは10匹の猿がいて、そのうち9匹は城中の一切の人民、男女を擾乱し、飲食を侵奪し、器物を破壊した。ところが一匹だけ心に知足を懐いて、樹上に安坐して人を乱すことはしなかった。10匹の猿は、釈迦牟尼仏の10種の弟子であると説き、10種の沙門を挙げて詳述している。そのなかで、「四には仏法の過失を求めて沙門と作る」など9匹の猿は総じて相似の沙門であり、知足の一猿こそ真実の沙門であると説かれている。この9猿とは、今の僭聖増上慢であり、一猿とは、真の法華経の行者である。
 また涅槃経巻7には「仏、迦葉に告げたまわく、我涅槃して七百歳後、是の魔波旬、漸く当に我が正法を乱壊す…乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り、魔王、此の有漏の形を以て無漏の身と作り、我が正法を壊らん」と説かれている。
 これらの二経に言われている「九猿」「聖者に相似せる者」等こそ、良観らにあるといわれているのである。ただし、良観らが仏法破壊の元凶であることについて述べられているのに、これでは少し中途半端で終わっているような気がする。本抄は草案として書かれたものなのか。あるいはなんらかの事情で表に出ないままになったか、いずれにしても、この御会通のままで幕府に提出されたとは考えがたい。また、大聖人と彼らの公場対決が実現しなかったことも事実である。良観が恐れをなしたか、幕府が大聖人に出させるだけ出させて、処置は最初から斬首・津罪と決めていたのか、計り知るよしもないが、確かなことは本書御述作の数十日後、文永8年(1271)9月10日には、幕府は大聖人を呼び出して詰問し、以下竜の口法難・佐渡流罪とつづく大法難に連結していることだけは、確かである。


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