【一年前】
●「老衰」で死ぬのは6%!!?
夫婦6%の中に入るにはまだまだ頑張らなくては?
妻「そうよ?」
私「そうね?」
?
【二年前】
●徳川家康24巻
??蟹は甲羅に似せて穴を掘る
【読み】 かにはこうらににせてあなをほる
【意味】 人はそれぞれ分相応の考えや行いをするということのたとえ。
【注釈】 蟹は、大きければ大きいなりに、小さければ小さいなりに、それぞれ自分の体に合った穴を掘って住む穴を作ることから、人間も自分の身分や力量に応じた言動をするということ。
「蟹は甲に似せて穴を掘る」ともいう。
??こうした備えの弱点が、千軍万馬の間を往来して、豊太閤にさえ一度も負けなかった家康の眼にどう映じていたであろう………
…………「困った子の気負い」…………
??「−−勝ちすぎてはならぬ」
??(わしの生涯で、このような不思議ないくさがあろうとは…………?)
??鎧袖一触(がいしゅう-いっしょく)
相手をたやすく打ち負かしてしまうたとえ。弱い敵人にたやすく一撃を加えるたとえ。鎧よろいの袖そでがわずかに触れただけで、敵が即座に倒れる意から。▽「鎧袖」は鎧の袖。「一触」はほんの少し触れること。
◎インスリンを発見したカナダのバンティング医師の誕生日。
元々国際糖尿病連合(IDF)と世界保健機関(WHO)が定めていた記念日であったが、2006年12月20日、国連で「糖尿病の全世界的脅威を認知する決議」が採択され、あわせて世界糖尿病デーが国連の記念日として認定された。
◎徳川 光圀(とくがわ みつくに)
常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。
諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。 子孫は北茨城市中郷町の村田家が末裔とされている。
水戸藩(みとはん)
常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。
藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。
隠居時代
元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日、権中納言に任じられた。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳ら60余人が伺候した。
◎クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった。
◎関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ海上橋で、1973年(昭和48年)11月14日に開通。橋長1,068メートル (m) 、最大支間長712 mは、若戸大橋(橋長627 m、最大支間長367 m)をしのぎ、開通時点では日本および東洋最長の橋となった(1983年(昭和58年)開通の因島大橋が関門橋を上回る規模の橋として完成し、その後もより大規模な橋梁が複数架設されている)。若戸大橋と並んでその建設は明石海峡大橋など国内の長大橋の先駆けとなった。
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第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す
0182.07〜0182終り
欽明・敏達・用明の三王の詔に曰く炳然として宜く仏法を断ずべし云云、
二臣自ら寺に詣で堂塔を斫倒し仏像を毀破し火を縦つて之を焼き所焼の仏像を取つて難波の堀江に棄て三尼を喚び出して其の法服を奪い並びに笞を加う云云、
大唐の武宗は四千六百余処を滅失して僧尼還俗する者計うるに二十六万五百人なり、
欽明・敏達・用明の三帝は「宣く仏法を断ずべきである」との詔を下し、これを受けて物部尾興や中臣鎌子らの二臣は、自ら寺に行って堂塔を倒し、仏像を破壊し、火を放ってこれを焼き、焼けた仏像を難波の堀江に投げ捨てた。更に三尼を喚び出して、その法服を奪って、笞打ちをくわえたという。
大唐の武宗は四千六百の寺を滅失し二十六万五百人の僧尼を還俗させた。