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2019.9.24-2

2019年09月24日 (火) 00:43
2019.9.24-

【一年前】
●博多座『マリー・アントワネット』
藤崎から10分、中洲川端駅の真上
コロッケ以来4年ぶり3回目
12:00〜15:05(?80休30?75)

“MA”という同じイニシャルを持つ二人の女性ーー悲劇のヒロイン「マリー・アントワネット」を演じる「笹本玲奈」も美しかったけど、「マリグリット・アルノー」演じる「ソニン」の演技が光る舞台でした。

1789年5月5日〜フランス革命
「♪100万ドルのキャンドル 煌く世界で
この世の深い闇を 見ようとしない人たち
パリは泣いている 見捨てられたまま 」

1789年バスティーユ襲撃
ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』を思い出しておりました。 ?

1793年マリー・アントワネット処刑

「♪どうすれば世界は」

最後はスタンディングオベーションでした。
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妻「今日は正真正銘の本物のミュージカル………感動した??………お父さんありがとう?」
私「奥さんが感動してくれるのが一番」
   
    
●パイオニア吹奏楽団
「東京都吹奏楽コンクール」で金賞受賞 − 11年ぶりの全国大会出場が決定!

9月9日(日)、東京都・府中の森芸術劇場で行われた第58回東京都吹奏楽コンクール(大学の部)に出場した、本学パイオニア吹奏楽団が金賞を受賞し、11年ぶり5度目となる全日本吹奏楽コンクール(全国大会)への出場を決めました。
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◎ムハンマド
(アラビア語: ?????、Mu?ammad、570年頃 - 632年6月8日)
イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。

マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマドの時代以前は名前をヤスリブと言い、アラブ人の二部族とユダヤ教徒の数部族が住む町であった。622年、マッカで迫害を受けていたムハンマドは、ヤスリブの部族間の調停を依頼されたのを機にマッカを脱出し、ヤスリブに移住した(ヒジュラ)。ムハンマドは現在の預言者のモスクの場所に住居を置き、イスラム共同体(ウンマ)の建設とマッカとの戦いを指揮し、ここで亡くなった。こうしてイスラム教の聖地となったメディナは、第四代カリフのアリーがイラクのクーファに移るまで、初期のイスラム共同体の首都として機能した。また、この地にはイスラム教史上初のクバー・モスクもある。


◎堂島米会所(どうじまこめかいしょ)
江戸時代の享保15年8月13日(1730年9月24日)、大坂堂島に開設された米の取引所。現在の大阪府大阪市北区堂島浜1丁目にあった。

当時大坂は全国の年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていた。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていたが、前者は現物取引、後者は先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。

◎9月24日午前4時、征討軍の砲台からの3発の砲声を合図に征討軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。


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行敏訴状御会通 第四章爾前妄語の論難に答える

また法華経如来寿量品第16の文は、7譬の一つ、「良医病子の譬」ななかのものである。

聡明で医薬に通じた良医に100人の子供がいた。良医が他国へ行っている留守に子供たちは誤って毒薬を飲んでしまい。地に転げ回って苦しんでいた。そこに父の良医が帰ってきて、直ちに良薬を照合して与えた。本心を失っていない子供はすぐに飲んで治ったが、毒気のため本心を失った子供は良薬を見ても疑って飲もうとしなかった。そこで良医は方便を設けて「是の良薬を、今留めて此に在く、汝取って服すべし」と言い残し、他国に行き、使いをつかわして「父は死んだ」と伝えさせた。

本心を失った子供たちは父の死を聞いて嘆き悲しみ、毒気から覚めて本心を取り戻し、残された良薬を飲んで病気を治すことができた。これを聞き、父は喜んで帰ってきて、すべての子供たちを見ることができたという。


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