◎和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)
708年8月29日(和銅元年8月10日)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。
◎南京条約(ナンキンじょうやく)
1842年に阿片戦争を終結させるため、清とイギリスの間で結ばれた講和条約。江寧条約ともいう。南京条約を記した原本は、のちに中華民国が受け継ぎ、香港返還直前は台北市で一時期展示されていた。
1842年8月29日(道光22年7月24日)、南京近くの長江上に停泊したイギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと清国全権代表で欽差大臣の職にあった耆英によって締結された。
条約の内容
?香港島割譲
?賠償金2,100万$を四年分割で支払う
?広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港
?公行の廃止による貿易完全自由化
◎廃藩置県(はいはんちけん)
明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
10時に鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。
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行敏御返事
文永八年七月 五十歳御作 与浄土僧行敏
行敏初度の難状
本抄は、日蓮大聖人が御年50歳の文永8年(1271)7月13日、鎌倉・松葉ケ谷の草庵にあってしたためられたものである。
7月8日、行敏から、大聖人の弘教を非難する書が送られてきたことに対し、回答された書である。「行敏」の名が付せられた書は、行敏御返事と行敏訴状御会通の2通である。御真筆は駿河・鷲津本興寺に断片が存している。
本文は、最初に行敏からの「初度の難」、その後大聖人からの「聖人御返事」が挙げられている。行敏の難状に「初度」とあるのは、文字通り最初に、直接、大聖人から送りつけてきた書状という意味であるから、少なくとも二度目があることになる。大聖人が公場での対決を提案されたことから、行敏は、訴状を鎌倉幕府の問注所へ提出したと考えられるが、それが二度目の難状であろう。
普通、訴状がなされると、訴えられたほうにそれを示し、訴えられたほうは陳状を提出する。問注所は双方の訴状と陳状によって裁判するのである。したがって、行敏の訴状が幕府の問注所から大聖人のもとに回され、問注所へ陳状を上申するように大聖人に命じてきたものと思われる。その答弁書、もしくはその草案が、本抄の後におさめられている行敏訴状御会通であるとも考えられる。なぜならば、本抄での行敏の質問に対して大聖人は直接答えられず、万事は公場対決が実現してからのこととされているが、行敏訴状御会通では本抄の質問及び、その後恐らく訴状に加えられていたのであろうと誹謗に対して答えられていて本抄と首尾一貫しているからである。
本抄が執筆された文永8年(1271)7月といえば、大聖人の御生涯のなかで最大の難である竜の口法難・佐渡流罪につながっていくさまざまな事件が重なった。波乱に富んだ時期であったことはいうまでもない。文永5年(1268)以来、大聖人は盛んに諸宗との公場対決を挑まれている。当時、極楽寺良観を中心とする鎌倉仏教界はそれに対抗して、幕府権力に働きかけて、大聖人を陥れようと図っていた。文永8年(1271)6月から7月4日にかけて、極楽寺良観は雨乞いの修法で大失態を演じ、完膚なきまでに大聖人に打ちのめされているから、ますます怨嫉の炎を燃やしていたのは疑いない。その結果、本抄御述作の2ヶ月後の9月、大聖人は「立の口の法難」を受けられるのである。