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2019.6.16

2019年06月16日 (日) 00:10
2019.6.16

おはようございます????
6月16日(日)
今日は9:30地区の朝発のあと、
母の四十九日法要(大牟田文化)と食事をします。
親戚の代表も文化にお連れします?
昼アルコールが入ると運転できないので、あとは大人しくしておきます。
 

九州北部の梅雨入りはまだのようです。
19日(水)以降になりそう。
あとでドバッと降るのがむしろ怖い。

       
【一年前】
◎健康診断
「猿渡さん、こちらへ」
一年に一度なのに、名前覚えてある。
もう25年目、、、四半世紀?
?

心電図、腹部エコー、首エコーok!
尿酸値、レントゲン、肝機能もok!
胃カメラも問題なし?
血液検査が――?
コレステロール………okに!!
相変わらず血糖値と中性脂肪?
?

☆今年(数日前)
……中性脂肪は→正常値内に?…一歩前進かな?
昨年はコレステロールが、今年は中性脂肪が正常値内に。
来年こそ血糖値を正常値内へ???

【二年前】
●5.5創価後継同窓の集い
本日の聖教3頁の先生が手を振っておられる、ちょうど見えないすぐ左側に私が立って礼をしているのですが、当時の聖教グラフに載ったんです。

1990年と言えば私33歳、その年の12月に税理士試験に「所得税」で5科目最終合格を果たした年です。

額縁に入れて事務所の中で埃にまみれていましたので、自宅に持ち帰り仏間に飾りました。

ちょうど先生と目と目が合っている、“原点”の写真です。

妻「お父さん若かったねえ!」

妻「今日またその写真を聖教に載せて頂いたのは、決して偶然ではなく、法戦で頑張っているからよ?」
ぐっときました。
??

●明日から44回目の上海(2泊3日)
午前中夫婦で健康診断を受け、18時過ぎの便で福岡から1時間半。創価同窓との一杯もまた楽しみです。
?
    
     
◎赤坂城(私本太平記三)
様式は、いわゆる、
“掻(か)き上げ城”
というものだった。
丘のすそ三方面は二百尺から三百尺の段崖である。

「笠置は陥ちた」
「天皇も捕まったぞ」

かきあげじろ【掻き揚げ城・搔き揚げ城】
簡単な堀を掘り土塁を盛った程度の小規模な城郭。

二百尺=60.606メートル

●菊水紋
菊の紋は足利尊氏も後醍醐天皇から下賜されています。 また豊臣秀吉も後陽成天皇から菊の紋を贈られています。 楠木正成が使った紋は「菊水」と言われています。

●赤坂城の戦い(あかさかじょうのたたかい)
鎌倉時代末期元弘元年(1331年)9月11日に起こった戦い。河内国・赤坂城(下赤坂城)に於いて、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、寡兵をもって鎌倉幕府の正規軍全4軍とわたり合った籠城戦である。赤坂城は一ヶ月余りの後に陥落したが、護良親王と楠木正成は逃走に成功し、幕府方は目的を果たすことができなかった。鎌倉時代末期の有力武将である楠木正成が、初めて歴史の表舞台に姿を現した戦いでもある。

●戦いに至るまで
鎌倉時代末期の1324年、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画したが、陰謀が発覚し失敗した(正中の変)。

7年後、1331年(元弘元年、元徳3年)に再び倒幕計画を日野俊基に進めさせたが、4月に陰謀が再度発覚した(元弘の変)。8月に後醍醐天皇は宮中から姿をくらまし、笠置山で兵を挙げ、これに楠木正成が呼応し赤坂城で挙兵した。

幕府軍は、後醍醐天皇が挙兵した笠置山を諸国御家人の軍勢を招集してこれを包囲、天皇方は抗禦したが約1ヵ月後に陥落する(笠置山の戦い)。このとき、後醍醐天皇や尊良親王、宗良親王などは捕らえられたが、護良親王は赤坂城へと逃げた。

◎雪どろんこ(私本太平記三)
「兼好(けんこう)さん、兼好さん」
「どこ行くの」
「から傘抱えてどこ行くの」
「酒瓶(ちろり)提(さ)げてどこ行くの」

●吉田 兼好(よしだ けんこう)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。

●『徒然草』(つれづれぐさ)吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されている。

●日本三大随筆『徒然草』『枕草子』『方丈記』          
           
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十一通御書 大仏殿別当への御状

蒙古国から到来した牒状の内容
 初めに、文永5年(1268)閏正月18日に、蒙古国フビライ汗から牒状が到来した事実を挙げ、牒状の内容の一部を示されている。全文は次の通りである。

 「上天の眷命せる大蒙古国の皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君も境土相接すれば尚努めては講信修睦す。況んや我が祖宗は天の明命を受けて、区夏を奄有す。遐かなる方の異域にして威を畏れ、徳に懐就く者は悉く数うべからず。

 朕即位の初、高麗の無辜の民、久しく鉾鏑を瘁るるを以って即ち兵を罷ましめ、その彊域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣は、感戴して來朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。


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