昼
「広末涼子の若い時の写真が昨日の読売新聞に載っていた…やっぱり綺麗」
妻「男も女も持って生まれた顔がいいと羨ましい。私はお父さんと結婚してよかったよ。な〜んも心配せんでよかけん。これが良かったらずっ〜と心配せんなんけん。お父さんも中の下(げ)くらいやけん、もう少し自分に自信持ってよかよ」
「中の下ね」
「うん中の下。ま〜だ悪か人おらすけん」
?
◎今日は仕事上の新たな発見?
F社の株式評価を、Y税理士法人の指摘に基づく点の修正作業をほぼ完了し、今日再計算をしてみたら、機械の圧縮記帳等による漏れが4億円以上あるのに、最終的な一株当たり単価は20万円程下がっている。
えッ? どこかまだ計算違いでは………
純資産額が数億円上がるので、類似比準株価の三要素のうちの「純資産」も増えると思いきや全く変わっていない。
よく見たら、そこでの純資産は申告書上の別表五の数字。つまり「簿価純資産」。
結局「非経常的な利益金額」を1.5億円以上下げられたことにより(先週税理士会相談室の確認済み)、類似比準株価の株価が引き下げられ、「大会社」であるのでそれがそのまま最終的な一株当たり単価が20万円程下げられ、当初私が計算した金額よりさらに下げられる結果となった。
相続税上の純資産額は類似比準株価には全く影響しないということ。
私としては新たなる大きな発見でした。
?
◎「右首と頭皮が特に………」
「………私が言うと…セクハラに…なるけど…
今日も………ミルキーのようだった」
「アハハ……セクハラにはなりませんよ?」
【一年前】
●『妻よ薔薇のように』?
「久しぶりに奥さんと嬉しかあ?」
「上手になったね」
年老いた文学少女の集まり
「俺にはお前が必要なんだ?」
?あ〜おかしか????
「家族はつらいよ」
パート?は、離婚騒動2016年
「あなたと一緒にいるとストレスなの」
パート?は、運転免許証返納問題2017年
「俺は被害者だぞう? 被害者?」
パート?は、嫁さんの家出騒動2018年
「え、私、このお墓に入るの?! いやよ〜」
妻「うちはその点、決まっているからよかたい。………
メモリアルパーク、私たちが入っても子どもたちはあまりお参りに来ないやろね………
でも周りは同じ地区や支部の学会員さんたちとずっと一緒だから寂しくはないたい
………
パート?もありそうね?」
???
◎栞(しおり)の語源は『枝折(しおり)』(5/27名字の言)
日本では平安時代、「夾算」(きょうさん)(巻物または書物の紙ばさみ) が使われていた。江戸時代に庶民を含めて書物が普及すると、紙縒(こより)や草花を挟んで目印とされた。現代に近い栞としては、徳川光圀が絹で包んだ紙片を後水尾天皇へ献上した。
天皇はこれを慶び、西行の和歌
「吉野山去年(こぞ)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ」
を引いて、枝折(しをり、しおり)と呼んだ 。
枝折とは、木の枝を折ることで山道などを歩く際に目印としたことから。転じて、本をどこまで読んだかという目印や初心者のための手引書などを「しおり」というようになった。
「確かに、一ページ一ページ、本を読み進める作業は、山道を一歩一歩、登るようなものだ。歩むペースは人それぞれ。途中の景色を心ゆくまで楽しみつつ、四方の絶景を見渡せる、物語のラストという山頂を目指す」
「古典や名作となると、山道は長く険しくなるかもしれない。それだけに、登り切った時の喜びは何物にも代え難い」
池田先生は………
『苦しく困難な登攀(とうはん)作業にも似た格闘を経て、初めて血肉となるのが良書です』
「山頂に立つ感動は、自分の足で登らなければ味わえない。一日5分でも10分でもいい。読書という名の“山登り”に挑戦したい。栞を挟むページがすすむにつれ、自身の心は鍛えられ、豊かになる」
☆『読書という名の“山登り”』
私にとって日々の読書のことですから心がトキメキました。
??
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十一通御書 極楽寺良観への御状
第一章経文通りの僭聖増上慢と断ず
また、勧持品第13には僭聖増上慢の住処については「或は阿練若に、納衣にして空閑に在って」と説かれている。「阿練若」は無事、寂静処、無爭声などと訳す。つまり、人里離れた山林・原野を意味し、閑静で比丘が修行するのに好適な場所をいう。「納衣」とは僧が身につける粗末な法衣のことである。良観が広壮な極楽寺に住し、外面はいかにも戒律を守って粗衣粗食に甘んじているかのような格好をしていることを、この文の通りではないかと指摘されているのである。
この勧持品の文を受けて「争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり」と追及されている。
これは「相違せり」と読み下しになっているが「争か」の反語に使われているので、正しくは「争か…相違せん」と読まれるべきである。良観が大聖人を讒奏したことがなぜ「阿練若」すなわち「無事」と合致するかといえば、本来ならば良観は自ら公の場に出てきて、堂々と正邪を争うべきであるのに、自分は陰に隠れて権力者を動かそうとするのが「讒奏」だからである。