【一年前】
◎奥さんはキムタクのドラマ
私「キムタク、ちょっと痩せたごたるね」
妻「いやいや、髪切らしたけん、スキッとなっとらす……
お父さん、キムタクに近づいて?」
「………」
「やっぱムリね、………
キムタク見てお父さん見るとがッパリくる、お父さん見てからキムタク見らんなん??」
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◎サムライマラソン
9:25-1120
行きはマラソン帰りは戦
時は幕末。アメリカ政府の使者ペリーを乗せた黒船の脅威に揺れる幕府に不満を抱く安中藩主・板倉勝明は、藩士を鍛えるために十五里(約58km)の道を走らせる遠足の開催を宣言する。
「姫と結婚したい」
「侍になりたい」
「もう一花咲かせたい」
だが、大会は欲に目がくらんだ者たちの足の引っ張り合いにより、泥仕合に。
「幕府か、藩か」
忠義と愛
☆最後は娘と父親がニッコリ?
☆今年の映画等11本目
6.七つの会議2.5
7.女王陛下のお気に入り2.17
8.民音 ハッピーコーラス 大牟田2.19
9.八甲田山2.22
10.マスカレードホテル3.2
11.サムライマラソン3.9
◎床屋?
“内田有紀”似の美人の地区婦人部長さんから髪カット??お孫さんがもう5人もいらっしゃるとは見えない。
「今日も癒されました?」
◎3月10日(日)福岡交流ルート決め
4人で九州池田講堂
→早良区2件(中学同級生&税理士)
→天神で3人を下ろし
→東区1件
(高校同級生・九大卒で精神科クリニック経営)
→イオン香椎浜店(マッサージ)
→福岡空港国際線駐車場(1日1,000円)
→地下鉄→博多サウナ泊
◎名字の言(3/9)より
我等が心は器の如し口も器・耳も器なり、法華経と申すは仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば・或は打ち返し・或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ・或は口に唱へじと吐き出しぬ、譬えば器を覆するが如し、或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり是は水の漏が如し
(秋元御書 1,071ページ)
◎英国ロイヤル・オペラ
世界五大歌劇場とは、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、そしてロンドンの英国ロイヤル・オペラを指します。その中でも、いま一番勢いがあるのがロイヤル・オペラだと言われています。
ウィーンやイタリア、ドイツの歌劇場が自国の作曲家の作品に重点を置いて発展してきたのと異なり、英国ロイヤル・オペラはイタリアもの、ドイツもの、フランスもの、ロシアものなど、幅広い作品をレパートリーとすることで発展してきました。伝統に固執せず、新しいアイデアを取り入れる姿勢は“演劇の国”の劇場文化に根ざした英国ならではのもの。
C.F.グノー作曲
「ファウスト」全5幕 FAUST
(上演時間約3時間40分 休憩1回含む)
指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:デイビッド・マクヴィカー
9月12日(木)18:30 東京文化会館
9月15日(日)15:00 東京文化会館
9月18日(水)15:00 東京文化会館
9月22日(日)15:00 神奈川県民ホール
G.ヴェルディ作曲
「オテロ」全4幕 OTELLO
(上演時間約3時間15分 休憩1回含む)
指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:キース・ウォーナー
9月14日(土)15:00 神奈川県民ホール
9月16日(月・祝)15:00 神奈川県民ホール
9月21日(土)16:30 東京文化会館
9月23日(月・祝)16:30 東京文化会館
☆高い?
「オテロ」はよくわからないから、
「ファウスト」だけにしておこう。
9月22日(日)15:00 神奈川県民ホール
23日は恐らく信濃町でほたる会総会
美濃大返し(みのおおがえし)
賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道のりを5時間でかけぬけた大掛かりな軍団移動のことをいう。
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2019.3.10
十一通御書
平左衛門尉頼綱への御状
第三章 式目を挙げ対決の公許を求む
御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、
貞永式目を見るに、正しくない行いを為政者が制止すべきことは明らかである。
☆御成敗式目(ごせいばいしきもく)
鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。 貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。
1185年に鎌倉幕府が成立以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていたが、1221年(承久3年)の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及んでいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や倫理観そして慣習が各地で異なるため、武家社会、武家政権の裁判規範として制定された。
承久の乱以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。
また数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、寛喜3年(1232年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、社会不安な世情であった。
そこで執権であった北条泰時が中心になり、一門の長老北条時房(泰時からして叔父にあたる)を連署とし太田康連、斎藤浄円らの評定衆の一部との協議によって制定された。