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2019.2.16

2019年02月16日 (土) 00:16
2019.2.16

◎今日も出勤したら
いきなり新規の問い合わせ。民商から移りたいとのこと。料金の問い合わせ。
1万、3万、5万+消費税申告分………
月次5,000円〜2万円………説明したら、
「お安いですね」
「はい安いだけが取り柄ですから」
「毎月お願いします」
??

◎法人統括が担当と来所
建設業の現場監督へのリベートの内、相手が明かせられる二人分は相手方に課税して「交際費」。800万円の限度額を超える部分をこちらも重加で課税。相手が明かせられない一人分は全部こちらで重加で課税。
社長も納得。ただし、こんなこと二度としない「念書」を税務署から直接貰いに行くとのこと。
「そうしてください」
リベート払った分の工事は全て赤字、あとも続かずに、その上に課税!!
踏んだり蹴ったり???
「今後大きくなられるところですから」
最後に4月に2社、税務調査を予定しているとのこと。「?どこ?!」
「いや、それは後日連絡させて貰います?」
?

◎マッサージの子と焼鳥屋に!!??
もう5年ほど揉んで貰っている。
事務所から歩いて2分。
足60分、手20分、体60分。
「あなたのボディ(のマッサージ)は最高??」
マッサージ歴11年?今30歳?
19時前、マッサージ店から事務所が見える。まだ電気が付いている。
雨が降っていたから相合い傘。
私の手は彼女の背中に軽く触れて………?
楽しい一時でした。
「猿渡さんごちそうさまでした?」
「俺の方こそありがとう?」

今日は奥さんは福岡市泊まり。
(ホテルニューオータニ博多)
???

奥さんとマッサージと足枕なしでは………
生きていけない??

◎55日前割引日計算
4/16(火)△55日=16+31+8………2月20日?
5/8(水)△55日=8+30+17………3月14日
6/5(水)△55日=5+31+19………4月11日
6/11(火) △55日=11+31+13………4月17日


◎嘘によって国を盗み取った男
「呂不韋」(りょふい)
の側女(そばめ)の子が「秦の始皇帝」?
???

奇貨居くべし
呂不韋の出身地は二説あり衛の濮陽(戦国策)と韓の陽翟(史記)である、商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き商売で富を築いた。

趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子・異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、掘り出し物だ。手元におくべきだ。)」と言った。陽翟に帰った呂不韋は父と相談し、話し合いの結果、将来のために異人に投資することで結論がまとまったという。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。

当の異人は、当時の秦王であった昭襄王の太子・安国君(後の孝文王)の子とはいえ、20人以上の兄弟が居ただけでなく、生母の夏氏が既に父からの寵愛を失っていたため王位を継げる可能性は極めて低く、母国にとっては死んでも惜しくない人質であった。しかも趙との関係を日増しに悪化させていた秦の仕打ちによって、趙での異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があった。

世子を擁立
呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫・華陽夫人の元へ行った。呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子が無く、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めた。

趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の出身だったのでこれに因んで名を子楚と改めている。

呂不韋は趙の芸妓(趙姫)を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、女を子楚に譲った。彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまった。これが政(後の始皇帝)であるという。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』でもこれを事実として書いている。

☆政………これがのちの秦の始皇帝である?
???

呂不韋は、最期は蜀へ流刑となり、服毒自殺。(紀元前235年)


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十一通御書 
北条時宗への御状 
宿屋左衛門光則への御状

十一箇所と申すは平の左衛門尉殿に申せしむる所なり 委悉申し度く候と雖も上書分明なる間省略せしめ候、 

十一ヶ所というのは、平左衛門尉殿の書状にその名を申し上げてある。詳しく申し上げるべきであるが、執権への上書にはっきりとしたためておいたから省略した。


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