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2019.1.28

2019年01月28日 (月) 01:20
2019.1.28

9:45~11:00
妻と娘と3人で候補者回し5件。
関与先「あなた2期もやっとっとにどんな実績があると?説明して」(30分)
親戚「海苔業者の疲弊と高齢化」(15分)
話が盛り上がりました。
11:00あとは妻と娘に任せて私は飯塚へ
妻と娘はその後近所を歩いて7軒。

菅官房長官
なかなかの苦労人。
ボンボンの麻生とは全然違う?
新聞全紙を朝の内に読破されるとの事。
私もなるべくそうするようにしてみよう。
某政治評論家曰く「ポスト安倍は菅?」
私もそう思う?
?

第44回「SGIの日」記念提言
4.第4回軍縮特別総会を提案
私は前半で、法華経の「三車火宅の譬え」に言及しましたが、各国の安全保障政策から“核抑止の本質的な危うさ”という炎を消していく道を、今こそ共に選び取るべき時を迎えているのではないでしょうか。

5.国連「持続可能な開発目標(SDGS)」
?悲惨な出来事を繰り返さないため、「歴史の記憶」を胸に共通の意識を養う。
?地球は本来、人間が「共に暮らす家」であり、差異による排除を許してはならないことを学ぶ。
?政治や経済を“人道的な方向”へと向け、持続可能な未来を切り開くための英知を磨く。
  
   
◎古代史連続講座(飯塚市)
『邪馬台国は東遷したか』
キーワードは「鉄」
「箸墓古墳は250年前後の日本最大のお墓。
だから卑弥呼のお墓以外に考えられない。
だから箸墓古墳は卑弥呼のお墓」
えっ???希望的観測
有力者の墓を作る風習がない時期
いきなり出てくる

………のはず?
………以外に考えられない?
………二十日も要しない………だから………

九州説………自然に当てはまる
?大規模な弥生凋落や王墓が複数存在
?中国鏡、中国系の土器、漢鏡、朝鮮半島系の土器、大陸系青銅器、鉄器が多数出土
?魏志倭人伝の記述と一致

大和は鉄をどこから貰うんですか………投馬国
なら投馬国は鉄の代価として大和から何を貰うんですか
建物が大きいだけでなく、倭人伝と一致しているか
纒向遺跡はまだ証明されていない
吉野ヶ里が一番合致
大和説………南は東の間違いだ
なら奈良の上に海はありますか
………琵琶湖、伊勢湾??

【朝貢品・贈品】
鉄と引き換えに何を持っていったか
「生口」(僕・しもべ)
永初元年(107)生口160人
第一次遣使(239)出稼ぎ、男4人、女6人
☆今で言う『拉致』かも??

水行………海岸に沿って行く
渡海………海を渡る………本州・四国
陸行………陸を行く
魏使は邪馬台国に至るまで九州島を出ていない?
「水行二十日・水行十日、陸行一月」
簡単には行けない。
儀礼を尽くして巡行しなければならない。

箸墓古墳………いつの間にか3世紀
これは4世紀

「箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない」という点だけはお三方一致する。


◎阿仏上人は濁世の身を厭いて仏になり給いぬ、其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて・去年は七月二日・父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲州・波木井身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す、子にすぎたる財なし・子にすぎたる財なし


【一年前】
☆日本VISA「招へい理由書」
1:招へい目的
知人訪問

2:招へい経緯
日本を観光したいということですので、招へいしたいと思います。

3:申請人との関係
上海出張時の通訳兼アシスタント。
2013年3月、嘉定区の日本人向けクラブ
「陽だまり」で出会いました。
一線は超えていません。
?

☆妻にLINE………
明日、創大同窓生・吉富君と会うことにしたから、明後日帰る。寂しいと思うけど俺も寂しいから?

☆空港チェックインは超々々混雑
こんなの初めて?
充電器は機内持ち込みのみなのに、何故か彼女のは没収?
「なんで―?おかしいよ??」
猛抗議したけど、なしのつぶて?
税関まで通るのに一時間以上?
お陰で「1・26SGIの日記念提言」を
一通り読破?

☆やっぱり?
大牟田は上海―東京間の通り道?
大牟田上空は空たかく、南西から東北に向けていつも飛行機雲が見えますので、たぶんそうだろうと思っていました。
ちょうど大牟田の上空を通って羽田へ?
?
富士山?もちょうど見えました。
?


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2019.1.28
十一通御書 北条時宗への御状 
第二章正法への帰依を勧める

彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し
 続いて、そうした「聖人」の一分の例として忠臣の諌言を国主が用いなかったために亡国を招いた先例を、中国の故事から示されている。「彼の呉王」とは、中国・春秋時代の呉の王だった夫差のことである。
 父王である闔閭は越王・勾践との戦いに敗れ、太子・夫差に復讐を遺言して死んだ。王位を継いだ夫差は二年後に再び越と対戦し、大勝した。勾践は会稽山にこもり、呉に降伏を申し出た。
 その時、呉の重臣・伍子胥が「今、越を滅ぼさなければ、あとで後悔するでしょう。勾践は賢君で、許されて国に帰ったら、必ず反乱を起こすでしょう」と進言したが、夫差はその諫めを聞かず、勾践を許して越へ帰国させた。
 伍子胥はその後も越に備えるよう説いたが、夫差は聞き入れなかっただけでなく、宰相・伯嚭の讒言を用い、伍子胥を自害させてしまったのである。その際、伍子胥は「我が眼をえぐって、呉の東門に懸けよ、越人が呉を滅ぼすさまを見ん」と言って死んだ。
 果たせるかな、それから2年後、国力を回復した越王・勾践は、呉に叛旗を翻した。油断を突かれた呉は戦いに敗れ、夫差は伍子胥の諌言を用いなかったことを後悔しながら自ら命を断ち、呉は滅びたのである。


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