【一年前の今日】
◎修羅の春
「名古屋へ………? で、ござりまするか」
「そうじゃ。たっしゃなうちに義直に嫁を迎えておいてやろうと思うての。婚儀じゃよ。婚儀に出かけて参るのじゃ」
「はい、浅野家ご先代幸長(よしなが)さまの姫君さまにて、春姫(はるひめ)さまと仰せのお方でござりまする」
「わかるかの。黄金に執着する者は黄金のために生命を落とす………衣装に執着する女子は、衣装のために不義をする………豊家はの、永世存続を思わば、あの城に執着してはならぬのじゃ」
(もはや戦は避けがたい………)
「なに、禁裏を戦に巻きこもうと?」
(そうか。そのような空気………があるかも知れぬ)
【徳川家康24巻】
☆徳川 義直(とくがわ よしなお)
江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。
尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。
☆高原院(こうげんいん)
慶長8年(1603年) - 寛永14年4月23日(1637年6月15日))
尾張藩初代藩主徳川義直の正室。
名は春姫(はるひめ)。父は紀州藩初代藩主浅野幸長、母は正室の池田恒興の娘。
慶長8年(1603年)、和歌山城で誕生する。慶長14年(1609年)に徳川義直と縁談をし、元和元年(1615年)に結婚する。寛永10年(1633年)に義直の2子と江戸に移るまで、名古屋城の本丸御殿に居住した[1]。2人の間に子供が生まれないまま、寛永14年(1637年)に35歳で死去し、萬松寺に葬られた。戒名は高原院大岳宗椿大禅尼。春姫には子供がなかったが、謹厳実直な義直は側室を置こうとはしなかった。しかし尾張徳川家の存続という責務も果たさねばならず、土井利勝は公命により側室を置くことをすすめた。(『金府紀較』)
後に義直の跡は側室の子である徳川光友が継いでいる。
春姫の嫁入りが名古屋の豪華な結婚式のルーツとされている。
◎雄略天皇は『大悪天皇』!!
〈日出処の天子書を日没する処の天子に致す〉
ほとんどの国が中国になびく中で、日本という国は中国に従わない「コシャクな国」。
江田船山古墳
大牟田から車で30分。
近く行ってみよう。
銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)は江田船山古墳から見つかった75文字の文字が刀身に刻まれた大刀で、日本最古の本格的記録文書として国宝に指定。
◎「天正」は超激動年間?
●1573年 (天正元年) ■室町幕府滅亡
●1575年 (天正3年) ■長篠の戦い
●1580年 (天正8年) ■イギリス商船平戸
●1582年 (天正10年) ■本能寺の変
●1584年 (天正12年) ■小牧・長久手の戦い
●1586年(天正14年 )(ひのえいぬ 丙戌)
聚楽第完成
〜(天正15年)九州平定
●1587年 (天正15年) ■バテレン追放令
●1588年 (天正16年) ■刀狩令
●1590年 (天正18年) ■家康江戸城に入る
●1592年 (文禄元年) ■文禄の役(〜1596)
◎『偽物の偽物』
漢の時代のオリジナルが、宋、明、清さらに現代というふうに繰り返しコピーされてきた………『偽物の偽物』
中国人は相手が一歩下がれば、二歩前に出る。こちらが二歩前に出れば一歩下がる。
………
日本は絶えず後ろに引いているのだから、前に押し寄せてくるはずだ。
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◎世阿弥(桂春蝶)
「初心忘れるべからず」
………初心とは、芸能者としては心も技も「最低レベル」なので、そこに戻るなよ…という意味なんです。………そうなんだ?
「時々は初心忘れるべからず」
………「たまには、初心の時のように大恥をかくような経験をオッサンになってもした方がいいよ」ということなんです。………??
「老後まで初心忘れるべからず」
………「ジジィになっても、たまには炎上の1つでもして、世間からたたかれるくらいがちょうどいい」というのが私の解釈なんです。………???
☆確かに?
◎台湾の「統一派」
「中国の国旗・五星紅旗(ごせいこうき) を降るのは、中国が台湾に攻めてきたときに抵抗感を軽くしておくため」という、恐るべき発想?
◎焼き鳥屋のマスター
「猿ちゃんは、上海はうまくいかんで、赤字出して、それに税金まで取られるなら『弱り目に祟り目やんね』」
「そうなんですよ?」
『弱り目に祟たたり目』
困ったときに、さらに困ったことが起こること。不運に不運が重なること。
泣き面(つら)に蜂。
◎わが友に贈る(12/7)
「七難即滅・七福即生とは是なり、年は・わかうなり福はかさなり候べし」
(四条金吾殿女房御返事 1,135ページ)
☆今日は仕事がさばけた??
「目の前の仕事」は多いけど、
一つずつ消していく。
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大聖人は、同年4月5日、幕府の中枢に関係があったと思われる法鑒房へ安国論御勘由来を送られた。
しかし、これに対する反応もなかったため、同年8月21日、かつて北条時頼に安国論を提出したときに、仲介の労をとった宿屋入道光則へ書状を送り、安国論の予言が的中したことを指摘し、北条時宗と対面するうえからも、宿屋入道に見参したし旨を申し入れられている。