◎『下手渡藩』(しもてどはん)
福島県伊達市に三池藩の領地があっただなんて?
下手渡藩は、柳川藩立花氏の一族である三池藩主立花種善侯が、文化3年(1806)に九州三池(福岡県大牟田市)から下手渡地方10村1万石の領主として移封され、下手渡村天平に陣屋を置いたことにはじまります。途中1回村替えがあったものの、明治元年まで63年間続きました。
小藩とはいえ名家の一つで、3代藩主の種恭侯は幕末期に老中格となって、大政奉還の大任を果たしました。戊辰戦争では、はじめ新政府の圧力に対抗する奥羽越列藩同盟側でしたが、途中で官軍側に味方したため、同盟側の仙台藩に攻められて藩庁の下手渡天平陣屋を焼失しました。種恭侯は明治維新後、学習院の初代院長に就任しました。
明治35年(1902)年に、旧藩士によって立花家の出自や事歴を記した「懐古の碑」が陣屋跡に建てられました。
◎黒田長溥と島津斉彬は従孫(おいまご)
二才違いで一緒に遊んでいた仲とのこと。?
黒田 長溥(くろだ ながひろ)
江戸時代後期から末期の大名。筑前福岡藩の第11代藩主。養父斉清と同じく蘭癖大名であり藩校修猷館を再興させた事で知られる幕末の名君である。
☆長溥の長兄が島津斉宣!!?
島津 斉宣(しまづ なりのぶ)
江戸時代後期の島津氏第26代当主。薩摩藩の第9代藩主。天璋院(篤姫)の祖父にあたる。
島津 斉興(しまづ なりおき)
江戸時代後期の外様大名。島津氏第27代当主。薩摩藩の第10代藩主。
島津 斉彬(しまづ なりあきら)
江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。
☆父・斉興と息子・斉彬の不仲は西郷どんでもあった?
◎本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)
永禄元年(1558年)
- 寛永14年2月3日(1637年2月27日)
江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
60歳を前に徳川家康から京都の土地を拝領し「光悦村」を創設。その模様は小説「徳川家康」の中にあります。
☆光悦が家康に切られる覚悟で、誰もモノを言えない家康に対して、激しく苦言を申し述べ、家康はそれを笑いながら聞いていて、そのお礼に光悦村を与え、光悦は家康の懐の深い真心に涙したシーン。私も深く涙したシーン。今でも思い起こすと涙?
楽焼白片身変茶碗
(らくやきしろかたみがわりちゃわん)
日本の国宝。楽焼の茶碗で、銘は不二山(ふじさん)。17世紀(江戸時代)、本阿弥光悦の作。別名に振袖茶碗(ふりそでちゃわん)がある。
◎承久の乱(じょうきゅうのらん)
鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。
☆日蓮大聖人はその1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」
◎夜
妻「私の言うこと利けるやろ」
私「う〜ん??税務署よりも利ける?」
「あはははは( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
………全然利いとらんやんね、いつも雀のさえずりくらいしか利いとらん?」
オリオン座が綺麗???
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
早勝問答 第七章真言亡国の理由を明かす
また密教に対すれば法華経は第三の劣であるという。
答えて言う。一義には、この義は経文なのか、自義なのか。
一義には、顕教の内では法華第一であることを認めるかどうか。もし認めるといったら、それでは弘法は僻事をいっている。なぜかならば、顕教の内において、法華経を華厳経に対して第二であるとし、真言に対しては第三といっているからである。
一義には、法華経が真言に対して第一であるならば亡国は必定と認めるのか。