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2018.10.11

2018年10月11日 (木) 00:05
2018.10.11

◎結婚33年、夫婦で和食レストラン?
「スマホめっからんね…目の細(ほ)〜そなっとる…苦労かけたもんね」
「そげん思うね…そう思うならよかたい…少しは苦労かけたと思ってるね」
「いやーうんとかけたよ」

「よー33年も持ったよ…離婚していい条件のいくつもあったとに…何か言うこつなか?」
「ありがとう」
「そうたい」

「これからも健康で仲良くいこうね??」
「夫婦共に100歳まで健康に、かつ老衰で俺が一日早く死ぬ」
「それが理想たい…でも生きたようにしか死なないというから生き様が大事」
?

「お父さん、相談があるんだけど………
ミキプルーンのキャンペーンで、来年、岩崎宏美が来るエクセラント・セミナーというのがあって、私まだそんなにお客さんいないから、………お父さんに応援して貰いたいんだけど………今日は結婚記念日だし………無理て言うなら私の保険から借り入れてでもするけど………私達も健康で長生きせんなんし………」

夜、風呂上がり………
「ミキプルーンは買いたいだけ買っていいよ」
妻・娘「お?」

奥さんから撮って貰った写真
「奥さんの前で、ちいそ(小さく)なってる感じ」
「はあ?………あはははは?」
    
    
◎職員も『16年』がターニングポイント??
関与先だけでなく、職員も『16年』がターニングポイントのような気がする??

入社年月を改めて調べました。
狩野澄子 平成5(1993)年4月 25年
山下武文 平成14(2002)年9月 16年
中島美江 平成15(2003)年12月 もうすぐ15年
中島洋子 平成16(2004)年1月 もうすぐ15年
高口賢了 平成16(2004)年7月 14年
純パート 平成27(2015)年1月 もうすぐ4年
計6名

16年超は今のところ二人。
皆長い。以前は2年毎に全員入れ替わっていたのに。人の問題は“転重軽受”した。

私の心の病が開業満16年の時。翌17年の時、二人の女性職員を妹が辞めさせてくれた以降、人材が安定し、私の“人に対するストレス”が無くなった。それから9年経って今26.5年。?

「山下君、この9月で満16年になっているよ。本番はこれからだよ??」

16年を越えていない職員も含め、数々の波乱動乱試練を乗り越えて残ってくれている『本物の職員』ばかりです。
??

今現在、全関与先330件の内、関与歴16年超は約2割、60件位はあるようだ。信頼関係は完璧です。確かに少々の事があっても揺るがない。本当にありがたい??


【一年前の今日】
●10・9入信記念日
昭和39年10月9日から53年目の入信記念日は、出陣式の日になりました。
北海道と神奈川が厳しいとのこと。
九州も四議席厳しい?

支部長「猿渡さんの出番?」(笑)
私「支部長、お誕生日おめでとうございます?」
「ありがとうございます。猿渡さんの入信記念日と同じ日に誕生日」
「しかも同じ年とは知りませんでした」

●妻はピンと来ない?
妻「明日は結婚記念日だけど…今日はピンと来ん…ピンもカンも来ん」
私「そうね」
「なら私の入信記念日知っとる?」
「知らん」
「そうやろが…うちは昭和35年2月1日」
「うちより大先輩たい、先生の会長就任の前ね」
「そうよ、福子よ」
「そういえば福子の顔しとる」
「あはあッ?」

●やっぱり共産党
私「わっぱり我々の前に立ち塞がるのはいつも共産党?」
妻「そうねえ、でもそれも意味のあることよ」
「広宣流布が達成しても、絶対反対の三分の一、三世永遠に成仏できない人々、御書にもあるやろね、探してみよう」

守護国家論 57ページ
而るに源空我が身唯実経を捨てて権経に入るのみに非ず人を勧めて実経を捨てて権経に入らしめ亦権人をして実経に入らしめず剰え実経の行者を罵るの罪永劫にも浮び難からんか。

祈祷経送状 1,356ページ
過去久遠劫より已来・未来永劫まで妙法蓮華経の三世の御利益尽くすべからず候なり

守護国家論 37ページ
願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ

?共産党の人々にも毎日お題目を送らせて頂いていております。??

☆でも、いざ、目の前に共産党の人間がいたら、「こらあ???」
罵倒するか軽蔑するか相手にしないかですね。


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

早勝問答 第四章天台宗の教義を破すp.164

一義には、いずれの教えの絶待妙かと反論すべきである、と仰せである。●絶待妙とは、法華経によってのみ成り立つ法理であり、法華経を根本としてこそいえるのであって、その法華経を忘れて真言第一としていることは大なる誤りであるということである。

一義には、として、それではこの絶待妙の意から、慈覚は法華経をひぼうしたのか、と反論せよと仰せである。

これは先の「開会の心を以て慈覚は法華を謗ずるかという項目と同じで、本来絶待妙の立場では全て一如であるといいながら、慈覚は法華経は大日経より劣ると誹謗しているのだから矛盾するのではないかとの破折である。


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