◎10:30地区発は夫婦で勤行唱題15分
「お父さんと久しぶり勤行唱題できて今日は一日元気いっぱい?」
「俺も奥さんと勤行唱題できて勇気百倍?」
「その白、よー似合うね。後ろのカッコよかよ」
??
【一年前の今日も九州墓地公園】
一年ぶりに行って来ました。娘も一緒に三人でどこかに一緒に出掛けるのは本当に久しぶりです。
「恵ちゃんが少し変わったけんたい」
「一人言…一人笑い…一人泣き…忙しかね?」
「演劇の練習?」
私のジャガーが車検中につき、奧さんの軽で片道二時間半。軽は煽られます?
勤行会で担当幹部が入って来られました。
妻に「あ、佐賀の広瀬副会長」
妻「知ってると?」
「うん」
司会者「本日の導師は藤瀬副会長です」
妻「名前違うやんね」
「そっか」
?
◎加地伸行教授
良薬口に苦しけれど、
智者は…疾(やまい)を癒すを知る。
忠言は耳に逆らうも、
明主は…功を致すを知ると。
(韓非子)
?マッサージ?→サウナ??♂?→映画?
◎英国総督 最後の家
(KBCシネマ19:05〜20:55)
2017|イギリス|Viceroy's House|106分
監督:グリンダ・チャーダ
出演:ヒュー・ボネヴィル、ジリアン・アンダーソン、マニシュ・ダヤル、他
第二次世界大戦で国力が疲労したイギリスは、植民地インドを去ると決定。
主権譲渡のため任命された新総督のマウントバッテン卿、その妻と娘は、首都デリーの壮麗なる総督官邸にやって来る。大広間と迎賓室がぞれぞれ34部屋、食堂は10部屋で、映写室も備えた大邸宅に500人もの使用人が使える。そこでは独立後に統一インドを望む国民会議派と、分離してパキスタンを建国したいムスリム連盟によって、連日連夜論議が闘わされた。一方、新総督のもとで働くインド人青年ジートと令嬢の秘書アーリア、互いに惹かれあう2人だが、信仰が違う上に、アーリアには幼いときに決められた婚約者がいた・・・。独立前夜、混迷を深める激動のインドで、歴史に翻弄された人々を鮮やかに描いた感動の人間ドラマ。それが「英国総督 最後の家」だ。
「歴史は勝者によって作られる」
ガンジー、ネルーも登場
時代は1947年。日本では昭和22年。
ヒンズー教徒とムスリムのどうしようもない対立、誤解、抜きがたい不信、憎悪………
ラストシーンーー
インドからパキスタンに逃れる難民の雑踏の中、帰国する列車もろとも虐殺され死亡したはずのアーリアの前をジートが通りすぎる。拡張マイクを拾い上げ………
「ジート?………ジート?」
……?……
「アーリア!!……アーリア?」
??
☆それにしても改めてインド映画のスケールの大きいこと。アメリカ映画を凌ぐ。どうやって撮影しているのだろう。?
◎地下鉄天神からまた間違った?
県庁方面行きに乗っていた
えーくそ?
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早勝問答 第四章天台宗の教義を破すp.164
天台宗との問答において予想される6項目をあげて破折の仕方をしめされている。
天台宗が無間地獄に堕ちる理由
初めに、天台宗を無間地獄に堕ちるという証拠はあるのか、との天台宗側の反論に対する破折の仕方を示されている。
一義には、法華経を誹謗するためであると反論せよ、と仰せである。
天台宗は中国の天台大師、日本では伝教大師により、法華最第一を根本として立てられた宗であるが、日本の天台宗は、第三代座主慈覚・第五代座主智証以後は、真言密教を取り入れて、天台真言宗といわれるものに変質していたのである。
すなわち、法華経と大日経を比較すると、説かれる理は一念三千で同じであるが、法華経に説かれていない印と真言が大日経には説かれているので事において勝れているとする。真言宗の善無畏が主張した理同事勝の邪義にたぶらかされてしまっていた。
ただし、この真言宗に染まった天台宗の僧への破折は次の「山門流の真言問答」で取り上げられ、ここでは総じて一切経を開会ののちは法華経と等同であるとしたのに対する破折を示されるのである。
大聖人は、御一代の化導において初めの段階では、念仏・禅等の破折に力点を置かれ、天台宗については破折されなかったが、竜の口法難以後、文底の実義を明らかにされるのと相応じて天台・真言に関しても明確に破折を加えられていった。
叡山天台宗の堕落に関して三大秘法抄には「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023−01)と指摘されている。
ともあれ、なぜ天台宗も無間地獄という点について、一義には、経文に背いているためである。と反論せよと仰せである。
一切経の中で法華経が最第一であることは、法華経に繰り返し説かれていることである。したがって、爾前諸経も開会ののちは法華経と等しいなどというのは、経文に背いた邪義なのである。