◎平城京
身共(ミドモ)
[代]一人称の人代名詞。われ。わたし。対等、またはそれ以下の者に対して改まった感じで用いる。
「―がよい所へやってしんぜう」
〈虎清狂・猿座頭〉
◎大宝律令(たいほうりつりょう)
中国の律令を手本として作られた、本格的な刑法(律)、行政法(令)の制度のこと。
710年に完成し、当時の年号から大宝律令と名づけられました。
では、その大宝律令について、すこし詳しく見ていきましょう。
天皇を頂点とする、律令国家(本格的な刑法と行政法をもった国家)の構想は古くからありました。
ほら、大化の改新にて蘇我氏を滅ぼしたのは中大兄皇子でしたよね。その皇子は後に天智天皇となりますが、彼は668年近江令(おうみりょう)といわれる、日本発の「令」行政法を制定したと言われています。これが、初めての行政法(令)であったと言われていますが、この時点では「令」のみで「律」はまだありませんでした。
そして時代は少し後になり672年壬申の乱にて勝利した天武天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の時代には、どうしても断ち切れなかった、中央豪族の政治干渉を排除し、661年に律令制定を命じます。
そして、彼が亡くなった後の689年には持統天皇によって飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が施行されます。これにより、戸籍制度や地方制度、班田収授法などの制度を始められました。しかしながら、現存しない為かなり不明な点も多くあり、この時代であってもまだ、令(行政法)のみで律(刑法)はなかったと言われています。
そして、やっと本格的な律令が出来たのが文武天皇(もんむてんのう)の時代で701年でした。唐の律令をまねて作られたのですが、日本に合うようにちょっと変えてあります。
唐の律令制は、「三省六部」。皇帝に直属する3つの省が配下の6部を通して皇帝の命令を実行する形式。日本の律令制では、行政を行う太政官と祭祀を行う神祇官とに分け、太政官の下に8つの省を置く「二官八省」を採用しました。
って、うーん。ちょっと難しい話になってきましたかね。まぁ、大雑把に言うと645年の大化の改新の頃、或いはもっと前の聖徳太子の時代から天皇を頂点とした強い国家づくり(律令国家)の構想はあったけれども、いろいろな事情があって、なかなか形にできなかった訳です。
それが、壬申の乱など長い道のりを経て、やっとのことで天皇を中心とし本格的な行政法、刑法を持った「律令国家」を完成させることができたのですね。それが710年でした。これが、大宝1年のことだったので、日本初の本格的な律令政治の基本法を大宝律令と呼びます。
◎上海は今、台風18号???
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早勝問答 文永八年 五十歳御作 p.163
第三章 禅宗の教義を破す
一義には、この文は、法華経は無益であるとする禅宗の主張を裏づける文証になるのかと反論せよ、と仰せである。
この法華経の文は、その前に、「甚深微妙の法は、見難く了すべきこと難し。無量億劫に於いて、此の諸の道を行じ已って、道場にして果を成ずることを得て、我已に悉く知見す。是の如き大果報、種種の性相の義、我及び十方の仏、乃し能く是の事を知しめせり」とあり、仏の悟りの境界、仏の智慧の深さを讃嘆して述べられたものである。
このことは、その後に、「諸余の衆生の類、能く得解すること有ること無し。諸の菩薩衆の、信力堅固なる者をば除く。諸仏の弟子衆の、曾て諸仏を供養し、一切の漏已に尽くして、是の最後身に住せる。是の如き諸人等、其の力堪えざる所なり、仮使世間に満てらん、皆舎利弗の如くにして、思を尽くして共に度量すとも、仏智を測ること能わじ」と続いていることからも明らかである。
そして、この甚深不可思議の法を説示し、衆生を成仏へ導くために法華経の説法がなされたのである。したがって、この文は法華経を無益だと否定する禅宗の文証にはなりえないのである。