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2018.7.16

2018年07月16日 (月) 01:07
2018.7.16

◎一年前の今日
●車の修理代が285,000円
ん〜ん。去年からの修理代はもう150万円。6年前に買ったときから言われていた修理だけども、次はどんな出血があるか……

「何かちょっとでも音がおかしかったらすぐに持ってきて下さい!」

(新車販売よりもこういう修理代が、一番儲かることは仕事上知っているのだ!)?

「今年10月が3回目の車検、そろろろ買い替え時かと思うけど、新車は私すぐぶつけるし、中古でいいけど、やっぱり外車がいいな、もちょっと職員の賞与をまともに払えるようになってからだな」
?

→この後10月車検、12月エンスト廃車。
結局2年で約200万円?

 
◎FBより
二乗は此等の報恩皆欠けたり故に一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり(十法界明因果抄P435)

大難なくば法華経の行者にはあらじ(椎地四郎殿御書P1448)

忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり(御義口伝巻下P771)


◎反逆の兆候あり?
会員に迷惑をかけて、何食わぬ顔で平然とする、輝きの全くない県幹部と元議員の夫婦。いつも私の前に現れる。盛り上がる会合ほど。
いつも小馬鹿にした目線。
人を見下せば自分に返ってくるのが仏法。
(実態を私は知っているのだ)
いずれ反逆していくだろう。
写真に写っている面々もほぼ同類か。
現役国会議員ももしかしたら要注意。
能力が高すぎて危ないかも。
『現代の五老僧』は歴史的必然?
題目を送ろう、、、?



◎岡城跡
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという。

天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。

豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。


◎This is My Name
Everybody let’s get together
Gotta be with Sensei forever
Cause tomorrow ’s counting on you
Doesn’t matter if you’re old or young
Doesn’t matter where you’re coming from
Cause I looked inside my heart
And I found hope
And this is my name
This is My Name

みんな 一緒に集おう
いつまでも先生と共に
なぜなら明日は 君の手の中にあるから
若いとか 年をとっているかなんて 関係ない
どこから来たかなんて 関係ない
心の奥深くを見つめて
希望を見つけたから
これこそが 私の名前なんだ


◎佐藤優氏
マルティン・ルターも時の権力に反抗して立ち上がった農民の殺戮を推奨

近代以降、最大の宗教であるナショナリズム

心の隙間につけこむ危険な宗教

「宗教的安全保障」


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