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2018.7.15-2

2018年07月15日 (日) 00:41
2018.7.15-

14:55
講演 高島忠平『情報と邪馬台国』

80後半
私はこの前まで「後期高齢者」、
最近は「末期高齢者」、
もうそろそろ「終末高齢者」
になりそうです。(爆)?

今日はーー
「誰も言ったことのない邪馬台国」
を話したいと思います。

☆魏志倭人伝
「倭人在帶方東南大海之中」
倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。

「山島に依り国邑を為す。」
山島に依って国邑を作っている。

☆「山島」とは中国の「山東半島」

「旧百余国。漢の時、朝見する者有り。」
昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。

「今、使訳通ずる所は三十国。」
今、交流の可能な国は三十国である。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」

韓国の西海岸は潮の満ち引きが激しい。有明海に似ている。

「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

「渡る」………初めて海を渡る

「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。」

「南」………近畿説の人は「東」の間違いではないか、と言われます。
?

魏使
海と陸を行っている
どうしていったか

『水行二十日、水行十日、陸行一月』

渡る………海を渡る
水行………海岸に沿っていく

邪馬台国を「渡る」とは言っていない
………「九州を出ていない」

じゃ、九州を行くのにそんなに日数がかかるのか

景行天皇の九州遠征、
12年〜19年かかっている
制圧していく
宮崎回り→有明海→筑紫平野
抵抗受けたり、饗応を受けたり

秦の始皇帝、征服後全土を巡行

す〜と(佐賀弁)邪馬台国に行ったか
???

三十国
何らかの形で中国との関係
魏の使いが通行する
邪馬台国に着くまでさまざま

☆ふみ国

飯塚
東西の交通の要衝
かつては遠賀湾
水物………大舟が入る→小舟→遠賀川
→様々な支流
→山
「山は登るためにある」
→「山は超えるためにある」

→熊本→沖縄

ふみ(不彌)国が当時の交通の要衝

倭国の海を渡ったという記述はない
九州を出ていない!

『水行二十日、水行十日、陸行一月』

海を渡ったか、渡ってないか
「渡る」と「水行」を使い分けている

卑弥呼は伊都国の出身
近畿説でも九州説でも説明が可能
卑弥呼の墓は邪馬台国に作ったという記述はない
三十のどこかの国
出身地に葬られる

卑弥呼はやはり伊都の国に

伊都国
中国から使者を送った時に検査する
国際的な情報が集まる所

卑弥呼は伊都国?
国際的な情報が疎い地域に卑弥呼がいる訳がない
三十国によって女王に

死後四十年、鏡で封印
言葉の使い方

☆魏使は九州を出ていない!!


☆パネルディスカッション

(投馬国から)南、邪馬壱(ヤバキ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月

吉野ヶ里遺跡で、今、土器の年代決定に取り組んでいる。それが出れば、邪馬台国と卑弥呼がどちらか、決着がつくと思われる。
近畿説の人も近畿では決着できないと言われる。 九州説は九州で決めるしかない。

 
☆私見
邪馬台国は主に、
近畿の人は「近畿説」、
九州の人は「九州説」、
大学は“大学別”
に決まっているようです。
………ちょっとおかしいですね!

遠賀川周辺の方が、宗像周辺が世界遺産になっているのに、なぜ邪馬台国と繋がらないの?と、最後に質問してありましたが、
「邪馬台国は我が地域」
の雰囲気も。
私は電車の時間がありましたので、
答えは聞かずに帰ってきました。

「大和朝廷」の“権威”で、邪馬台国の痕跡を 完膚なきまでに粛清されたのだと思います。
その軍事拠点として設置されたのが大宰府。
近畿説にしないと都合が悪いのは、大昔も今も変わらないようです。

「海を渡る」と「水行」は区別。
「魏使は九州を出ていない」
私は九州人だから九州説ではなく、
やっぱり「九州説」の方が超自然!
益々確信になりました。
??♂????
 

妻「そんかこつは、ぜん??ぜん??関心ない」


◎コメQから、街頭演説会のお知らせだよ(shiny)
東京から山口代表も来てくれるよ(fourleafclover)
みんな来てね(!)



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2018.7.15
早勝問答 文永八年  五十歳御作 p.162
第二章浄土宗の反論を破す

浄土往生は未顕真実に非ずとの説を破す
次に浄土宗側の言い分として、無量義経の「四十余年・未顕真実」の文は、成仏の法についていったもので、成仏の法に関しては法華経以前の諸経は未顕真実であるが、浄土に往生する法についてはあてはまらない、というのがあったのであろう。

それに対して、一義には、あなたはそれを理由に法華経を誹謗するのか、と反論せよと仰せである。

本来、往生とは、死後に他の世界に往って生まれることで、極楽往生・兜率往生・十方往生等がある。往生思想は、此の世を穢土として嫌って離れたいと願い、浄土に生まれることがその救いとなるとの考えから生まれたもので、あくまでも法華経に一切衆生の即身成仏を説くまでの方便・権教なのである。


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