Contents
RSS 2.0

ブログ blog page

2018.3.25

2018年03月25日 (日) 00:33
2018.3.25

◎妻と娘は息子のいる大阪へ
朝、新大牟田駅まで送っている車内で、
私「今晩は寝室で寝るとさみしかけん、一階の仏間に布団敷いて寝るけん」

妻「ならそげんせんね。今晩だけでなく、もうそろそろ夫婦別室の方がいいやろ、ずっと一階でよかよ」

「……俺は隣に誰が寝とかんといかんとたい」

「誰かて誰ね」
?

◎上海の元社員の女性より重大な情報
5月1日より、特定の産業の重大な信用を失った者は、飛行機を乗れなくなる?

法定代表している合弁会社の決算申告を何年もしておらず、ほったらかしといたら、中国での信用にキズがつく、と元社員の子が言ってきている。

そもそも、従業員が社長の会社を乗っ取るなんて、日本では考えられない。

いずれにしても、空港でいきなり拘束されるのが多くなっているので、中国はしばらく要注意かも?


◎会館講義/T副会長
(19:20〜大牟田文化会館)
法華経は、末法のための経典です。
最も苦悩が充満する悪世の民衆を、誰が救うのか。

弥信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり
(p.1308)

元品の無明

?「一凶」である無明と戦う

?如説修行の団体は今や創価学会しかありません。

一人また一人と地涌の菩薩を呼び出だされた。

「悩んでいる人を折伏させて下さい!」


相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり (p1338)

「煩悩即菩提」
「即」の一字は南無妙法蓮華経なり

「その身のままで輝いていける」
「自分は変わることができる」
「人も変えていける」

「深い悩み」とは?―一広宣流布の悩み

人生で出会ったすべての人に
仏法を語っていこう?



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

八宗違目抄 p.158
文永九年二月  五十一歳御作 与富木常忍
第八章 華厳宗も一念三千を明かさず

【本文】
諸仏は 悉く一切は心に従つて転ずと了知したまえり、 

若し能く是くの如く解すれば彼の人真に仏を見たてまつる、 

身亦是れ心に非ず心も亦是れ身に非ず 一切の仏事を作すこと自在にして未曾有なり、

若し人・三世一切の仏を知らんと欲求せば 応に是くの如き観を作すべし心・諸の如来を造すと、 

若し今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨・理として実に消し難からん」と。

【通解】
諸仏は一切のものが心から生じることを知りつくしている。

もし能くこのように理解すれば、その人は真に仏を見たてまつることができるのである。身は心ではなく、心もまた身ではない。

そして、自在に一切の仏事をなすことは、未曾有のことである。

もし人が三世一切の仏を知りたいと願うならば、まさに心が諸の如来を造ったのであると観じなければならない』と説かれているが、もしわが天台一家における諸の円文の意趣がなかったら、彼の華厳経の偈の義理を解了することはできない」といわれている。

【解説】
爾前の諸経を用いる理由

日蓮大聖人は十章章において「爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり」(1273−08)と仰せである。

つまり、天台大師等が爾前経や外典を引いて法門を展開していても、それは決して爾前や外典の心においてではなく、法華経の心においてであり、爾前や外典の文を借りても、その爾前経等の義は削り捨てているのであると示されている。

大聖人が、例えば立正安国論において、爾前経・外典等の文を多く用いられているのも、全くその意味においてであることはいうまでもない。

更に日寛上人は三重秘伝抄において「問う、昔の経経の中に一念三千を明かさずんば、天台何ぞ華厳心造の文を引いて一念三千を証するや。答う、彼の経に記小久成を明かさず、何ぞ一念三千を明かさんや。若し大師引用の意は、浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云。又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は活の法門なり』云云。彼の経の当分は有名無実なる故に死の法門と云う。若し会入の後は猶蘇生の如し。故に活の法門というなり」と、明確に述べられている。

華厳経には二乗作仏・久遠実成が明かされていないのであるから、一念三千が説かれていないことは明白であり、たとえ一念三千に通じる文があったとしても、有名無実であり、死の法門である。

しかし、法華経の実義を説明する文として活用するならば、その死の法門も蘇ってくるゆえに、法華経は活の法門であるとの御教示である。


トラックバック

トラックバックURI:

コメント

名前: 

ホームページ:

コメント:

画像認証: