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2018.3.16

2018年03月16日 (金) 00:26
2018.3.16

◎国税局電話相談員8日目(最終日)

?過払い金が返ってきたのですが申告必要?
いいえ、何もしなくていいです。

?移植を受けているんですけど
領収書があればいいですよ。

?先物取引の損失申告を出しているんですが、29年分は全く取引がなくても申告しないといけないですか?
はい、今日中に「付表」を提出しないと繰越しされなくなりますので、必ず今日中に提出するようにして下さい。

?H30年から簡易課税を取り止めて本則課税にしたかったんですけど、(農協関係の)税理士が出していないのでどうすればいいですか?
設備投資はいつの予定ですか?
今年7月から11月頃ハウス3000万円
なら今年6月までに「簡易課税取りやめ届出書」と「課税期間短縮届出書」を出せばいいです。大変失礼ですけど、農協関係の税理士さんはその辺詳しいですかね。詳しい税理士を探して下さい。納税者からその辺を言われると、税理士は通常ビクッとしますけどね。(笑)


?今日の電話64件
2/9〜3/15まで8日間で電話617件?
一日平均76.6件
(2/9)59+(16)74+(23)76+ (3/2)76+(5)81+ (9)95+(12)92+(15)64=617件 
本当に貴重な経験です。


◎お疲れ様会
皆、弾けていました。
やりきったという満足感。

例のお客さん、どうされた?
税額あきらめて頼まれました?
あ、そう、それはよかった。
逃げられるかと思った。

もう一人一人が大事。
お客さんも一人一人大切だけど、
職員も一人一人が益々大事。
一人でも欠けたらおおごと?
?

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

八宗違目抄 p.156
文永九年二月  五十一歳御作 与富木常忍
第七章 天台の教法賛嘆した史実示す

【本文】
勅委して五台山に往いて功徳を修せしむ,時に天台の宗学湛然妙楽.天台第六の師なり禅観を解了して深く智者天台なりの膏腴を得たりと、

嘗つて江淮の僧四十余人と清涼の境界に入る、 湛然・光と相見て西域伝法の事を問う、

光の云く一国の僧空宗を体得する有りと問うて 智者の教法に及ぶ梵僧云く 曾て聞く此の教邪正を定め偏円を暁り止観を明して功第一と推す 再三・光に嘱す 或は因縁あつて重ねて至らば 為に唐を翻して梵と為して 附し来れ某願くは受持せんと屡屡手を握つて叮嘱す、 

詳かにするに其の南印土には 多く竜樹の宗見を行ず故に 此の流布を願うこと有るなりと、


【通解】
勅命により五台山に行って、講義してその功徳を修しめた。

時に天台宗の宗学者湛然妙楽は天台宗第六祖となり、坐禅観法を解了して、智者天台の意を深く得ていたが、かつて江淮の僧四十余人と共に清涼山に入り、含光に会ってインドの伝法弘伝のことを問うた。

含光のいうには『大乗の空宗を体得した一国の僧がいた。その僧が智者・天台大師の教法について問うてきた。そのインドの僧がいうのに、かつて自分は天台の教えはよく邪正を定め、偏教と円教とを明らかにし、止観の法を明かして、その功績は第一と聞いているが、どうか因縁あって再び来る時には、その唐本を梵語に翻訳して持ちたいと願っているといって、再三そのことを含光にたのみ、幾度も手を握って丁寧に頼んだ』と。

今、そのことをくわしくすると、その頃、南インドには竜樹の教えを信ずる者が多かったから、天台の教法の流布を願ったものであろう」とある。

【解説】
含光と会見した妙楽大師の記述

同趣旨の記述は妙楽大師の法華文句記巻10下にもみられる。大栄高祖伝と重複するが、会見内容の立証にもなるので、紹介しておきたい。

文句記には「適江准の四十余僧と往きて台山に礼す。因りて不空三蔵の門人、含光の勅を奉じ、山に在りて修造するを見る。云く『不空三蔵と親しく天竺に遊びたるに、彼に僧有り問うて曰く“大唐に天台の教迹有り、最も邪正を簡び、偏円を暁むるに堪えたり、能く之を訳して将に此土に至らしむ可けんや”と』」とある。

つまり、不空と含光がインドを訪問した折、ある僧が、中国には仏法の正邪と偏円を正しく判別した天台大師の論訳があるから、それを翻訳してインドへ伝えてほしいと頼んだのである。

これは、天台大師の名声が遠くインドにまで伝わっていたことを意味するとともに、もはやインドには伝えるべきものがなかったことをしめしているといえる。

ゆえに、これを受けて妙楽大師は文句記に「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや、而も此の方、識ること有る者少なし。魯人の如きのみ」と述べている。

ここにある「中国」とは仏教発祥の中心地・インドのことである。つまり、唐の時代におけるインドでは、釈尊の法が廃れ、そのために逆に中国から求めようとしたのである。

しかし、当時の唐代の人は、そのことがよく分からなかったのである。それは魯国の人々が自国の孔子の偉大さを知らなかったのと同じであることを物語っている。

それゆえ日本の伝教大師最澄は依憑天台集において「天竺の名僧、大唐の天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞き渇仰して法門の縁」として、この文句記の文を引いている。


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