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2018.1.20

2018年01月20日 (土) 01:16
2018.1.20

◎朝食時の夫婦の会話
私「朝ドラの“てん”に、奥さんの笑顔は似てるよ」
妻「私の笑顔はいろんなことを乗り越えてできた笑顔?誰かさんの………」
「俺のお陰?」
「お陰とちゃう?私の信心よ?」
?


◎自社株評価検討会
株式評価は私はエキサイトします?

やはり毎期こつこつと配当をした方が、株価も下がり、争続対策にもなる。

しかも、今年の税制改正で、後継者への事業承継もしやすくなるので、今年一年しっかりと勉強し、来年あたりから全株承継を検討しましょうかね。

業績が悪化した場合は、税理士等のアドバイスを受けなさいとなっていますよ。
?

終了後イオンに行ったら、そこの会長さんとバッタリ。ちょうど映画館に入られるところでした。老後はこのように悠々自適がいいな?
?


◎民事再生
早速、来週月曜日に、弁護士と経営者との初回面会をセッティング?弁護士は創価大学出身。
社長「本当に出来る?出来たら凄いよ」
私「民事再生は割と簡単ですよ」
??

◎久しぶりに残業
妻へLINE−−
「久しぶり遅くなったから焼き鳥よ」

アルコールはお正月以来です。


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

八宗違目抄 p.154 
文永九年二月  五十一歳御作 与富木常忍
第一章 諸経に三身常住の義なし 

天台大師は法華文句巻9下において、法華経如来寿量品第16の題号を釈し、次のように述べている。

「寿量とは詮量なり。十方三世の二仏・三仏・本仏・迹仏の功徳を詮量する。今、正しく本地三仏の功徳を詮量す。故に如来寿量品と言うなり」と。「詮量」とは物事の道理を量り、明らかにしていくことをいう。

すなわち、「寿量」とは仏の寿命および寿命に含まれる功徳を量ることをいうが、その仏に、真仏・応仏の二仏、法・報・応の三仏、本仏・迹仏等の立て分けがある。諸経で説く仏は、そうした種々の功徳のいずれか一面をあらわした仏を説いているにすぎない。

寿量品では「本地三仏」の功徳を明かしており、またこれは法華経寿量品以外には説かれていない。それゆえに「如来寿量品」というのである、という意である。

諸経でも種々の仏身を明かし、その功徳の荘厳なることを説いているが、本地の三身は寿量品以外には明らかにされていないと断じているのである。

この点について妙楽大師は法華文句記巻9中で「法・報は是れ本・応身は迹に属す。何を以てか乃ち本地の三仏と言うや」との問いを設けている。

すなわち、法身・報身は本地であるが、応身は垂迹であるから、本地の三身というのはおかしいではないか、という意である。

この設問に答えたのが本抄冒頭に示されている法華文句記巻9中の文である。


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