◎寸志支給
皆「所長、ありがとうございました?」
「え、あー、今年も支給できて良かった?」
“賞与”というよりも“寸志”
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◎クリスマスケーキ?
3,000円の7個クリスマスケーキを勝って
6名プレゼント?
妻「お父さんは糖尿だから食べん方がいいよ、全部食べとくから」
「なん、残しといてよ!!」
◎忘年会
3人で忘年会。
同じ地区兼お客さん兼20年来の飲み友達。
創立100周年まであと13年。
73歳と86歳………お互いにゾッとする?
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蓮盛抄 p.152 建長七年 三十四歳御作
第六章 毘廬の頂上を踏むとの義を破す
【本文】
夫れ仏は一切衆生に於いて主師親の徳有り 若し恩徳広き慈父を蹋(ふ)まんは不孝逆罪の大愚人・悪人なり、
【通解】
仏は一切衆生において主・師・親の三徳がある。恩徳の広い慈父を踏むなどというのは不幸で逆罪の大愚人・悪人である。
【解説】
次に、もし毘盧遮那仏を、現実に「仏」として現れた釈尊と理解し、その頂を踏むということを意味するならば、梵天ですら仏の頂を見ることができないと説かれている。これは仏の32相の一つ、無見頂相をふまえられたもので、色界の天にいる梵天王でさえ、仏の頂を見下ろすことはできず、梵天王の視線より上にあるというのである。その偉大な仏の頂を「薄地」すなわち欲界の九品のうち六品までしか断じていない下劣な凡夫に、どうして踏むなどということができるだろうか、と破折されている。
そして改めて、仏は一切衆生にとって、主師親三徳の広大な恩徳のある存在であり慈父である。その仏の頂を踏むというのは不孝であり、逆罪を犯す大悪人ということになる。そのような愚人や悪人は仏経以外の教えである儒教の孔子の書物のなかですら排斥されているのであるから、いわんや内道である仏の正法においては排斥させるのは当然であるとされ、どうしてそのような道理に反する邪法や邪類を讃嘆して無量の重罪を作ってよいであろうかと一蹴されている。